9ー2 目覚め
「具合はどう?」しばらく考えていると、隣に居たレイナが尋ねてきた。
「死ぬほどじゃないけど、結構痛いな」
冗談のつもりで軽い返事をしてみたが、レイナはくすりともしなかった。
「そう、無理もないわ……見せて」
断る理由もなかったので、俺は黙ってレイナの方に身体を向ける。レイナは真剣な表情のまま、俺の腹に巻かれている包帯を外していく。腹部の傷は、どれくらい深いのだろうか。生々しい傷跡があらわになるのを覚悟する。だが、露わにされた腹部にあるのは、ほとんど塞がりかけた傷だけだった。
「多分だけど、じきに痛みも取れるはず」レイナの声は心なしか沈んだ様子だった。
「なあ、これは何なんだ? だって、俺はあの時刺されて――」俺はそこまで口にしたものの、その後に続く言葉は出てこなかった。
あの男の刃は、確かに俺の腹部を貫いた。それは、刺されたという言葉だけでは足りないほどの致命傷だったはずだ。だが、俺はまだ生きている。生きているどころか、傷もほとんど塞がっている。そして――突然湧いてきたような、説明のつかないあの力。
俺は自分の掌をじっと見つめる。俺は、どうしてあの男を倒そうと動いたのか。どうして、レイナを助けたのか。どうして、俺自身を助けたのか。俺は、死ぬはずだったのに。
「……私には責任がある。あなたに説明する義務がある」重々しい口調でレイナはそう言うと、彼女は立ち上がった。「あなたには知る権利がある」
レイナはそっと俺の首筋に触れた。
「あの時、あなたのここに、あるマイクロチップを埋め込んだの」
「は……マイクロチップ?」
恐る恐る、首筋を触ってみる。指で触れるとほんの少し傷みを感じられるくらいの小さな傷がそこにはあった。知らなければ、虫に刺された痕だと思い込んでしまうほどの些細な傷だ。
「何なんだ、それは」
「そのマイクロチップは、ある特定のDNA領域にある遺伝子を発現させるための……」そこまで言ってレイナは戸惑いの表情を見せた。「ええと、どう言えば伝わるかな……」
レイナはしばらくブツブツと小さく何かを呟いてから、深く息を吐いてから俺の方を見た。
「ヒロキ、あなたDNAって言葉は知ってる?」
「ああ……人並みには。生物の設計図みたいなものだろ?」
「そんなとこね。じゃあ遺伝子は?」
「それくらい名前は知ってるさ。DNAと似たようなものだろ?」
「ちょっと違う」レイナは腕を組んだ。「遺伝子はDNAの中にある“情報”なの。その“情報”を元に、タンパク質が作られる過程をセントラルドグマと言うんだけど」
「セントラルドグマ……」あまり馴染みの無い言葉だ。
「このセントラルドグマという生命の機構によって、皮膚、筋肉、臓器、脳……私たちの身体の全てが作り出されているのよ」
レイナの話を聞いていると、なんだか生物の授業を受けているような気分になってきた。
「ヒロキ、例えばあなたが指を軽く切ってしまったとしましょう。その傷をどうする?」
「どうするって」俺は少しだけ考えた。「普通は、消毒して絆創膏を貼って……」
「そうしたらどうなる?」
「どうって、時間が経てば自然に傷は塞がっていくんじゃ……」
「そう、自然に治る」レイナは教師のように人差し指で天井を指すしぐさをした。
「これは細胞の代謝によるものよ。人間だけじゃなく、多くの生物が有している普遍的な機能ね」
レイナは両腕を広げた。「じゃあ、この細胞の代謝を活発にしたらどうなると思う?」
「順当に考えれば、治りが早くなる、とか……?」
思いついたままに答えると、レイナは頷いた。「その通り」
「ある昔の論文では、Lin28という遺伝子に注目した。これは、細胞の代謝をリプログラミングすることによって、組織の修復を亢進させるというものよ」
レイナは左手を握り、それをあごに当てて目を閉じた。
「実際、特定のRNAと呼ばれるものに結合するタンパク質を細胞内で過剰に生産するマウスを作製して、切断した指が再生されやすいことや耳に開けた穴が塞がりやすいという……」だんだん、話についていけないレベルになってきた。
それが顔に出ていたのか、レイナは俺の方を見た後、はっとして言葉を切った。
「つまりは」レイナはそこでひとつ咳払いをして続ける。「さっきあなたが言ったように、代謝活動が高い方が治癒能力も高い、という可能性がいくつかの動物実験で示唆されているってこと」
「なるほど」レイナの言っていることは、なんとなくは理解できたような気がする。
「その、治癒能力を高めると思われる特定の遺伝子を発現させる目的で、あのマイクロチップは作られたの。」
レイナはそこで肩を落とした。「いつかは医療用のマイクロチップとして役立てるはずだった……」
「だった」という言い方が気になった。レイナの表情が曇っていく。「ただ、私の予想してた結果にはならなかった……」
「どういうことだ?」
「私はあの時、このままじゃヒロキが死んでしまうと思った。それを避けるには、あのマイクロチップを使うしかない、そう思った」
レイナの言い方は、まるで自分に言い聞かせているようだ。
「開発中でまだ人間の治験段階にもないものだけど、それしか方法は無いと思ったの……」
レイナの口調は、どんどん切迫していく。
「ヒロキを死なせることなく、なんとか連れて逃げられれば良いと思ってた。実際、あなたが受けた傷が致命傷になるのは防げた」
「でも……」レイナは唇を噛んだ。「まさか、あんなことになるなんて……」
あんなこと。
それは、チップを打った直後の、一連の俺の異常な行動を指しているのだろう。
「ごめんなさい……」レイナの瞳には涙が浮かんでいた。
「本当は、私が自分に使うはずのものだったのに、あなたを巻き込んでしまった」
レイナの瞳の涙は、まばたきをすれば今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。
「本当に、ごめんなさい……」レイナの謝罪に、俺はなんと答えるべきか迷い、何も言うことが出来なかった。
おそらくレイナの説明の半分も、俺は理解出来ていないのだろう。しかし、レイナは俺を助けようとした、少なくともその事実だけは理解出来た。そのことで、彼女にこんな悲しそうな顔をしてほしくなかった。だが、その気持ちをどう言葉に表せばいいのだろうか。
俺はただ、包帯を外した自分の身体を眺めた。あの夜に受けた傷は、既に存在感をなくしかけている。謎の男と対峙した記憶が、あたかも嘘だったかのようだ。身体の痛みも明らかに薄れてきている。
高度な治癒能力を付与することを目的に作られた、医療用のマイクロチップ――。
あまりに突拍子がない話だが、自分の身に起きている現象が何よりの証拠だった。信じざるを得ない。
「なあ、ちょっと聞いていいか」
朱音がいぶかしげな表情で口を開いた。




