9ー1 目覚め
夏の匂いがする。
通り雨が近いことを示す、鼻にまとわりつくような土の匂いだ。先ほどまで照りつけていた日差しは、いつの間にか大きな入道雲の影に隠れていた。鳴り響くセミの声が時折止んで、大きなけやきの樹のゆれる音が風に乗って聞こえてくる。
「ヒロくーん? 聞いてる~?」
空に向けていた視線を落とすと、目の前には、そらのが居た。
「そらの……」
「もう、また人の話聞いてなかったでしょ」
「……ああ、すまん」
ぼんやりとした意識のままそう答えると、そらのは「ヒロくんはしょうがないなあ」といたずらっぽく微笑んだ。
「この後、ケーキ屋さん寄っていこうよ、って話!」
そうだ、そうだった。
学校が終わって、俺とそらのはいつものように神社へと向かう道を歩いていたんだ。
「ケーキ奢ってくれるって、ヒロくんさっき言ってたんだけど、それも忘れちゃったかな?」
「おい、どさくさに紛れて嘘をつくなよ」
「さすがのヒロくんでも、この手には引っかからないか」
そう言いながら楽しそうに笑うそらのを見て、俺も思わず笑ってしまう。それから、そらのは真っすぐに、鳥居の向こう側――神社の境内を指さした。
「それじゃ、行ってくるね」
それはこの三年間で何度も聞いた台詞だ。この場所でそらのの帰りを待つことは、もはや日課のようになっている。だから、何もおかしなことはない。しかし、何故かあの鳥居をくぐってはならないような気がした。
そんな俺の心配をよそに、そらのはいつも通りの小気味よい足取りで進んでいく。ワンピースの裾をなびかせて駆けていくそらのは、そのままふわりと夏の空へ浮かび上がってしまいそうだ。
どうして、向こうへ行ってしまうんだ。
どうして、どこかへ飛んでいってしまいそうなんだ。
どうして、こんなに不安な気持ちになる?
そらのに声を掛けようとしたが、何故か全く声が出せない。その間にもそらのはどんどんと向こうへ行ってしまう。あの鳥居をくぐってしまう。それだけは止めなければならない。
俺は、走ってそらのを追いかけようとしたが、その場から一歩も足を動かすことが出来なくなっていた。向こうに行ってしまうそらのの背中を、俺はただ見つめているしかなかった。
どうして、俺は何も出来ないんだ。
――どうしてあの時、俺は何もすることが出来なかった?
やめてくれ。
行かないでくれ。
消えないでくれ。
そんな俺の思いが通じたのか、あるいは心を読まれているのか、そらのはこちらを振り返った。
「大丈夫。私は消えないよ。だから、ここで待っててね」
そらのはそれだけを言い残すと、いつも通りの小気味よい足取りで進んでいく。
そらのの背中がどんどんと小さくなっていく。
夏の陽炎の中へ、溶けていく。
* * *
「……そらの!!」
気付くと俺は手を伸ばしていた。
「ぐっ……!」同時に強烈な痛みが身体中を走る。
「ヒロキ……!」レイナが今にも泣きそうな顔で、俺の顔を覗き込んでいた。
「レイナ……? ここは……」
「あっ! 楠原くん、目が覚めた?」春菜の声も聞こえて、周囲を見回した。
どうやら俺はソファの上で横になっていたようだ。向かいにも革製のソファがあり、そこには春菜や竜泉寺さん、米倉さんが座っているのが見える。さらに部屋の奥には小さなキッチンらしきものや扉がある。どこかのマンションのリビングだろうか?
「つ……っ!」起き上がろうとすると、再び強烈な痛みに襲われた。
「おいおい、無理すんなっての」声が聞こえた方を見ると、レイナの隣に翔も座っていた。
翔は立ち上がって俺のそばまで来ると、自分の肩を突き出した。
「ほら、起き上がるんなら、俺の肩をつかめよ」
「……どうした。妙に親切だな」
「ははは。減らず口が叩けてるうちはまだ大丈夫だな」
「ワタシも手伝うよ。楠原くん、ほら、手ぇ貸して」翔と春菜が両側から支えて、俺を起き上がらせてくれた。
「楠原くん、大丈夫? なんだかすごくうなされちゃってたみたいだけど」春菜は、両腕を組んだり、時折あごを右手でさすったりと落ち着かない様子だ。
「まあ、あれだけのことがあったんだから、無理もないよね」米倉さんがうんうんと頷いている。
「ちょっと待ってくれ。一体何が起こったのか、俺はまだ良くわかってないんだが……」
俺の疑問に翔が答えた。
「朦朧としてるお前を支えながら、レイナちゃんが俺たちのところまで連れて来てくれたんだよ。その時のお前を見た時は、さすがの俺も焦ったわ」
「はあ……」俺は重たい頭を動かし、何が起こったのかを思い出そうとした。
大きな爆発の音と、サイレンの音。翔を探しに駅へ行って、朱音とエマを追いかけて……駅の近くで正体不明の男が現れた。大まかで断片的なことは覚えているが、記憶の輪郭は既にぼんやりとしていた。
男の右手が刃物のように変化して、女性を――走るレイナの背中を追いかけて、それでどうなった?
ああ、そうだ。せめてレイナだけでも逃がそうと――。
そこまで思い出して、レイナの方を見た。皆がどこか安堵しているような表情をしているのに対して、レイナは先程から険しい表情のまま、俺の方を見ていた。
レイナを逃がそうと思った後のことは、本当にぼんやりとしか覚えていない。とにかく必死だった。詳細をあまり覚えていないのは、衝動的な動作の連続だったからだろう。ただ、事実として何が起こったのかは覚えている――俺の腹部を貫いた刃のことも。
「まあとにかく、あの子たちの車に乗せてもらえて良かったよ」翔が言った。
「車……?」俺が翔に尋ねるのと同時に奥の扉が開き、朱音とエマが現れた。
「楠原、やっと起きたのか」朱音はどこか安堵した様子だ。
「朱音……ここは?」俺の言葉に朱音は肩をすくめた。「アタシたちのアジトだよ」
「アジト……?」
「父さんが使ってたトラックを改造して、生活できるようにしたんだ。アタシとエマはずっとここで暮らしてる」
「トラック……? ここが……?」俺は改めて室内を見渡した。一見しただけでは普通の部屋にしか見えない。
エマが無言で自身のMRDを操作した。すると、窓にかかっていたカーテンが開き、窓の外の景色が青空へと変わり、続いて夕映えの光が差し込んでくる穏やかな情景に変わった。最後には再び、カーテンが閉じた元の状態に戻された。
「これは窓に見立てたディスプレイです」エマは無表情で説明してくれた。「通常は、実際の空の様子とリアルタイムに連動するようにプログラムされています」
「うわー、凄いねコレ!」いちばん大きなリアクションをしたのは春菜だった。
「張り込みとかでずっと車にカンヅメだと、ストレス溜まるんだよねー。いいなあ」
春菜は感激したように何度も頷いている。エマは春菜の方を無感情に見つめながら「ちなみに」と続けた。
「駅から離れた場所まで運転してきました。ここなら安全に夜を過ごせるはずです」
なるほどつまり、朱音とエマが郊外まで俺たちを運んでくれたということだ。
「朱音たちに助けられたんだな、俺。ありがとな」
「いいよ、別に」ぶっきらぼうに朱音が言った。「それに助けたのはアタシじゃない」
「アタシは何も出来なかった」朱音はそう言うと、ふいと横を向いた。
自分の身体に改めて目をやると、上半身は衣服を脱がされており、その身体には包帯に巻かれていることに気付いた。不思議なことに、身体中に痛みはあるものの、その痛みのどれもが致命傷では無いだろうということは感覚としてわかった。
刃を右手に宿した、得体の知れない男を思い出す。あの時確かに、俺は腹部に男の一撃を受けて倒れたはずだ。だが、首筋に僅かな痛みを感じた後、身体中を電流が通り抜けるような感覚が走り、俺は立ち上がった。
あの時感じた、湧き上がるような衝動が俺を突き動かし、それがどうやら俺とレイナを助けたようだ。あれは一体何だったのだろうか。




