8ー5 凶刃
「がはっ……!」
痛みが身体中を襲いかかり、口から止めどなく血が溢れ出してきた。その血は止まることなく、息が上手く吸えない。
「ハ……ハァ……」
もはや方向感覚がわからなくなっていた。身体から全身の力が抜けて、やがて俺の身体は何か固いものにぶつかった。目の前には夜空が広がっていた。俺は地面に倒れているらしい。
こんなに呆気無いものか――。
いや、こうなることは最初からわかっていたはずだ。
ただ、俺の存在は、時間稼ぎにもならなかった。それだけが心残りだった。
「レイナ……ごめん……」せめて、彼女が逃げられていれば良いのだが。
目の前が急激に暗くなっていく。ドクドクという心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、その鼓動が徐々に遅くなっていくのを感じた。どう考えても、俺はこのまま死ぬだろう。
――でも、それで構わないはずだったじゃないか。
暗転していた視界が突如、ぼんやりと白くなり始めた。ぼんやりとした視界の先に、そらのの姿がちらつく。無邪気に駆けてきて、片手を挙げるそらの。
遠くからぼんやりとした音が聞こえる。それは1度では終わらず、間をおいて何度も鳴った。最初は鐘の音のように聞こえたそれは、鳴るたびに少しずつ輪郭を形どっていき、やがてハッキリとした音として認識することができた。
「ヒロキ!」そう聞こえた直後、何かが首筋を刺すような痛みを感じた。遠くに見えていたそらのの姿が消えた。身体中を電流が走るような衝撃があり、視界にまばゆいばかりの光が差しこんできた。暖かい何かが、身体中に拡がっていくのを感じる。ぼやけていた意識が、急速に鮮明になっていく。
「ヒロキ? 見える?」目の前でレイナが覗き込んでいるのが見えた。レイナの左手には、ボールペンのようなものが握られている。
「あれ……なんで……」
「それは後で説明する! とにかく起きて逃げるの!」
レイナはボールペンらしきものを、シャツの胸ポケットに納めようとしていた。その奥で、何かがわずかに動くのが見えた。レイナのすぐ後ろに、先程の男が立っている。
「はっ……」レイナが背後の気配に気付いて鋭く息を吐いた。
男は、刃と化した右上をゆっくりと振り上げているところだった。男の動きはやけに遅い。何故だ? 何故こんなにゆっくり……。
それに対して、レイナもボールペンをゆっくりと逆手に持ちかえようとしていた。ボールペンの先から細いメスのような刃先が飛び出し、月の光で煌めくのが見えた。
そのペンで戦うつもりなのか?
無理だ、レイナ……逃げろ……。
レイナを逃さなければ……。
レイナだけでも――。
先ほどの電流のような刺激が、また身体に流れるのを感じた。不思議なことに、腹部の痛みはいつの間にか感じなくなっていた。俺はレイナの肩に手を掛けた。
「えっ?」
突然肩に手を掛けられて驚いたのか、レイナはこちらを振り向いた。同時に、男は刃になった右腕をレイナの背中に向かって振り下ろした。
レイナを逃さなければ。
再び身体に電流が流れる感覚。
その感覚に弾かれるように、俺の足はひとりでに動いていた。
「オオオォォ……!」
俺はレイナの身体を自分の身体で包むような姿勢になりながら、横向きに転がり込んでいた。大きな衝撃音。ぐるぐると回る視界の中、先ほどまで自分たちが居た地面が砕かれるのが見えた。勢いを殺すために足でブレーキを掛けると、男から少し離れたところで身体は止まった。
「ヒロ、キ……?」レイナは呆然とした表情で俺を見ていた。大きな怪我は無さそうだったので、少し安堵した。俺はレイナから離れると、立ち上がり、男の方を向き直す。
「ほう」男はレイナに集中させていた意識をこちらに向けた。「女、こいつに使ったな?」
男はちらりとレイナを見た後、俺の方に身体を向けた。それは良い兆候だった。身体中が熱い。先程まで一定間隔で起こっていた電流のような刺激が、今はずっと継続している。ピリピリとした感覚を感じながら、同時に内側から充足感のようなものが湧き出るのを感じていた。ここ一ヶ月、ずっと混濁したようにもやがかっていた意識が、今はとてもスッキリしている。なんとも不思議な感覚だった。
俺と男は無言のまま、互いに睨み合う形になった。
あの男の右腕の刃はかなり大きい。剣というよりも斧に近い。先ほどレイナに振り下ろされた刃は、地面を抉るほどの破壊力があった。だが、一振りのモーションはそんなに速くは無い。最初にあの刃に貫かれた時、男はまず俺の腕を掴んで動くことを封じてきた。それは振り上げ動作が必要無い、刃を前に押し出す動作で仕留めるためだろう。どちらの動作でこちらに攻撃をするか、それを見極めることが出来れば――。
先に動いたのは男の方だった。右腕の上腕が僅かに持ち上がるような動き。振り上げ動作の兆候。その気配を掴むのと同時に、俺は走り出した。向こうが攻撃のための準備動作が完了してからでは、またあの刃で攻撃を受けてしまう。一度でもあの攻撃を受けたら終わりだ。男との距離は数メートルはあるように見えた。しかし、迷いなく飛び込んだのが功を奏したのか、自分が予想していたよりも早く思い描いていた場所に滑り込むことが出来た。
「グッ……」男が無意識的に肩を背後に引こうとしているのがわかった。俺が懐まで飛び込んでくるとは思っていなかったようだ。
身体中に走り続けているピリピリとする感覚が一層強くなるのを感じた。同時に、背筋がゾクゾクするような感覚。大きな口を開けた猛獣の、その口の中へ入っていくような気分だった。俺は男の懐まで踏み込んで、右手を握りしめた。右腕は既に後ろに構えている。
迷うな――。
男のみぞおち辺りに狙いを定め、走ってきた勢いを全て右腕に伝えるようなイメージで俺は右腕を真っ直ぐ突き出した――その次の瞬間、男は吹き飛んだ。
「グオォォッ!?」男はうめき声を上げながら、向こう数メートルまで弾け飛んだ。
強い反動が腕から身体全体に伝わり、その衝撃に思わず俺はうめいた。慣性を抑えきれず、後ろに数歩ふらつきながら下がる。男の方を見ると、男は背後のコンクリートの壁に激突していた。
間違いなく俺はあの男に右腕を当てたのだろう。しかし、殴られた人間が吹き飛ぶなど、あり得るはずがない。何が起こった?
「ヒロキ……」すぐ後ろからレイナの声が聞こえて、振り返る。
その表情には、何故か恐怖が張り付いているように見えた。
「レイナ……?」
大丈夫か――そう声をかけようとした時、全身から何かが抜けていく感覚がした。ピリピリとした感覚が消えていく。途端に両足が震え出した。俺は両足で身体を支えることが出来なくなり、地面に膝を付いた。
「ヒロキ? ヒロ……」レイナの声が、だんだん遠くなっていく。
身体が地面にぶつかる感覚。
身体に全く力が入らない。今度こそ俺は死ぬのかもしれなかった。まあ、それでも良い。今のうちにレイナは逃げることが出来るだろう。
そうして、徐々に意識が遠のいていき――最後は視界が暗転した。




