8ー4 凶刃
レイナを追いかけるうちに、駅から離れたひと気のない路地裏まで入っていた。気付けば夕日は沈みきり、空は闇夜に包まれていた。レイナの背中は、もうすぐ触れられるだろうかという距離にまで縮まっている。
「レイナ! 待てって!」
レイナは俺の声に耳を傾けることなく、振り向くこともせず走り続けている。
「ついて、こないで……!」
仕方がない。少し無理にでも止めるしかない。レイナも走り続けた疲れが出ているようで、徐々に走る速度が落ちてきた。今がチャンスだ。俺は一気に距離が縮め手を伸ばし、レイナの肩をつかんだ。そこでようやくレイナは足を止めた。
「はぁっ……ん、はぁ……」
「はあ……ああ、はあ……」
俺とレイナの息を整える声だけが路地裏に響く。
「どうして、追いかけて来たの」レイナは少し呆れた様子だ。
「どうしてって、レイナが急に走り出すから……」
レイナは目を伏せたまま何も言わなかった。
「あの男のこと、知っているのか?」
「いえ……見たことない男だった」そう言うレイナの身体は小刻みに震えている。
「狙われる心当たりがあるのか?」
「……ごめんなさい」レイナは俺から視線を外してそう言った。その言葉の意味するところは、つまり――。
「言えない……ってことか?」
俺の言葉にレイナは何も答えなかった。その沈黙が、肯定を示していると考えるべきだろう。
「……あの男、明らかに私を狙っていた……だから、これは、私の問題だから……」
レイナが突然あの場から走り去った理由が、なんとなくわかってきた。
「わかった」
「え?」
「レイナの問題について、言いたくないことは言わなくていい。深入りするつもりも無い」
俺は両腕を組んで、路地の壁に背中をもたれながら話し始める。
「でも昨日の夜、レイナは言ってくれたよな? 力を合わせようって。俺たちは今、協力関係にあるはずだ。でも俺はまだ、レイナに助けられてる一方だ。これじゃ全然フェアじゃない」
足元に落としていた視線をレイナの方へ向ける。レイナは呆然とした様子で俺の言葉を聞いている。
「だから、ひとりで勝手にリスクを背負うのはやめてくれ」
それは、レイナにとって予想外の言葉だったらしい、あからさまに驚いた顔をした後「ありがとう」と小さく呟き、微笑んだ。レイナが笑う顔を、俺は初めて見た気がする。その笑顔には思慮深さと、今にも朽ちてしまいそうな儚さが感じられた。
「でもあの時は、ああしないと皆が危ないと思ったから……」
「ああ。結果的に、レイナの判断は正しかったと思う」
あの一触即発のさなか、レイナが逃げたのをきっかけに、あの男は姿を消した。レイナの行動は、ある意味最善の方法だったのかもしれない。だがそれは同時に、あの男が本当にレイナを狙っていたのだということも意味していた。
「あの後、例の男は姿を消したんだ。他の皆も無事だと思う」俺は良い側面だけをレイナに伝えた。レイナはどこかほっとした表情で「そう」とだけ答えた。あの男が再び現れる前に、出来るだけ早く他の皆と合流して、どこか身を潜める場所を探さなくては。
「とにかく、皆と合流しよう」
「そうね。まずはカケルに連絡を取ってみま――」
レイナが突然困惑した表情で言葉を切ったので、俺はレイナの視線を辿った。
「そんな……」鋭い眼光の男――あの男が、俺たちのすぐ近くに立っていたのだ。
いつの間に、こんな近くまで来ていたんだ?
気配は全く感じなかった。足音も全く聞こえなかった。
「クク……」
男は長い影を引きずりながら俺たちに近付き、あの薄笑いを顔に浮かべた。
「他の人間を差し置いて一目散に逃げ出すとは、なかなか痛快だったぞ」
男の言葉には、少し感心しているような、楽しんでいるような含みがあった。
「戦略としては悪くない。凡庸な人間は得てして、退くという基本的な判断が出来ないものだ」
男の放つ言葉は、明らかにレイナに向けられている。
「その点は評価しよう。だが……」男は周囲を見回した。
「逃げ込む先としてこのような場所を選んだのは、失敗だったと言わざるを得ない」
男はギラギラとした眼光をレイナに向けた。
「だが、おかげでこちらは、気兼ねなく狩ることが出来る」
男は右腕を横に上げた。肘の方からゆっくりと、右腕が大きな刃に変わっていくのがはっきりと見て取れた。先ほど見たのは目の錯覚などではなかった。本当に腕が変化していたのだ。自分の常識で理解出来る範囲を大きく超えていた。本当にこんなことが現実に起こり得るのか――。
その刃は鉄のような硬さを持っているようでもあり、肉が変質して出来たような生々しさもあり、とてもグロテスクだ。男は刃となった右腕を下ろすと、ゆっくりとこちらに歩き始めた。薄笑いをしながらこちらを射抜くような視線を送るその目からは、殺気というよりも、愉悦を帯びているように見えた。ひどく冷酷な輝きだ。自分の心臓が、大きく高鳴るのを感じる。呼吸が上手く出来ない。おそらくレイナの瞳にも、その冷たい光が映っていることだろう。
レイナの方を見ると、動くことが出来ないのか、男をじっと見つめて立ちすくんでいる。くそ……どうする……。
ふたりで逃げるのは困難なように思えた。自分ひとりが全速力で逃げれば、可能性はあるかもしれない。だが、レイナを置いていくわけにはいかない。何故かこの男は、レイナを執拗に追ってきている。俺はレイナにだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「レイナ、俺があいつの気を逸らす。その隙に先に逃げろ」
「えっ?」
「あの男が狙ってるのはレイナだ。だからレイナが先に逃げ出すことが出来れば、その後で俺が逃げるチャンスがあるかもしれない」
「でも……」レイナの声は今にも消え入りそうだ。
「そうするのがベストだ。ちゃんと逃げろよ」俺の声も震えているのが分かった。
「ちょっと、ヒロキ……!」
レイナの反論を聞くより先に、一歩前に進み出た。
「おい!」男とレイナとの間を遮るように立ちながら、男に向かって声を掛けた。
男は初めてその存在に気付いたとでも言うような表情で、俺の方を見た。
「ほう、この右腕を見ても尚、前に出るか」
男は自身の右腕を軽く左右に動かした。「大抵の人間は、これを見るともう動けなくなるものだ。己の中にある狭小な常識が少し揺るがされただけで、人間は簡単に思考を停止させてしまう」
無表情だった男が、突如愉快そうに口角を上げた。
「あるいは貴様も既に、何か常識を超えた存在を目にしたことがあるのかな?」
「お前は誰だ? 何故レイナを狙う?」
「……つまらん問いだな」男は心底興味が無さそうな表情でそう言った。
「質問は慎重にした方が良い。お前が知ることの出来る、最期の答えになるかもしれないのだからな」
俺の言葉を促すように、男は左手を俺の方へと伸ばした。
「逆に問おう、貴様は何故その女を守ろうとする?」
「それは……」
「その女が何者であるのか知っているのか? 何を隠しているのか知っているのか? 貴様にとって、本当に命を掛けて守る価値のある人間なのか?」
レイナが何者であるのか?
レイナが何を隠しているのか?
この男は、それを知っているというのか?
――うかつにも、そのような考えを頭の中で巡らせてしまった。
それは1秒にも満たなかったであろう短い時間だった。
だが気付いた時には、男の影が一気に大きくなっていた。
「クク、もう答えなくても良い。貴様は何も知らない哀れな男だということがわかった」
しまったと声を出すよりも先に、俺は胸ぐらを男に掴まれていた。
「くっ……!」
瞬く間に首のあたりが締まっていき、息苦しくなっていく。
「レイナ! 走れ!」
声が出なくなってしまう前に、俺はレイナに向かって叫んだ。
今しかない!
レイナが逃げるチャンスは今しか――
「その勇気だけは評価しよう」
男の声が聞こえた直後、身体に衝撃が走った。
「ヒロキッ!!」
レイナの、悲鳴のような叫び声がやけに遠くから聞こえるようだった。
一体、何が起こった?
衝撃を受けたと思しき場所は、腹から胸のあたりだ。
俺は自分の腹の方を見て――男の右腕の刃が、俺の脇腹に深く刺さっているのが見えた。
「ッ……!?」俺は叫んだつもりだったが、何の言葉にもならなかった。腹に、冷たい刃物がめり込んでいる――その事実を目の当たりにして、痛みよりも先に、ひとりでに身体が震え出す。
「ここで貴様は退場だ」男は刃を勢いよく引き抜いた。
その瞬間、腹から赤い物が吹き出すのが見えた。そして、少し遅れてから一気に激痛が全身に広がった。




