5ー1 国家権力
葵さんに挨拶をして、あの家を離れてから、俺は符中市の街中をしばらくあてもなく歩いていた。いまだ太陽は強烈な光を放っている。今日は一日中暑い日になりそうだ。
「次に行くところは、もう決めてるの?」何も言わずに俺の横を歩いていたレイナが、ふと口を開いた。
俺は足元に落としていた視線をレイナに向けて「いや、まだ」と答えた。
「ねえ、さっきから考えてたんだけど……」
レイナは視線を俺の横顔と自分の足元の間を行ったり来たりさせたあとで、意を決したように言った。
「ソラノが亡くなった場所には、行ったことある?」
亡くなったという言葉を聞いて、俺は自分が想像していた以上に衝撃を受けていることに気付いた。そう言えば、そらのが事故に遭ったとされている場所には、あれから一度も行ったことがない。いや、あえて行かなかったというべきか。
「これはあくまでも個人的な意見だけど、その場所には行ってみるべきだと思う」
レイナはハッキリとした口調でそう言った後、すぐに目を伏せて「ヒロキにとっては辛いと思うけれど」と付け加えた。
「いや、レイナの言う通りだと思う」
「……そう」
俺の返答に、レイナは心なしかほっとした表情になったように見えた。明らかに気を遣わせていることが申し訳ない。
「じゃあ、行ってみましょうか。その場所はここから近いの?」
「ああ……」俺が場所について話そうと口を開いたとき、「ねね、そこの君たちっ!」と誰かから声を掛けられた。振り返ると、ピンクのジャケットとミニスカートに身を包んだ女の子が立っていた。
「ちょっといいかな?」彼女はそう言うと左手首のMRDに触れ、俺たちの目の前にARディスプレイを表示した。そこには「警察庁 捜査一課巡査 神咲春菜」と書かれている。それは、彼女が「神咲春菜」という名前で、警察関係者であることを意味した。
「警察の人、ですか?」何か良くない予感が俺の中に湧き出てくるのを感じる。だが、俺の不安をよそに、彼女は「そう。いわゆる国家権力ってやつだね」とフランクに答えた。
「国家権力って……」
女性警官の軽い口調はさらに俺を不安にさせた。レイナの方を見ると、彼女もこの女性警官のテンションについていけていないのか、言葉を失っている。
「あのね、ちょっとだけ捜査に協力してほしいんだけど、いいかな? いいよね? あんま時間は取らせないよ」
この人、妙な押しの強さがあるな……。
春菜と名乗った警官は爽やかな笑みを浮かべながら、さらに一歩前に踏み込んできたので、俺たちは思わず一歩後ずさりした。
「捜査って、具体的には、どんな事件なの?」レイナが若干引き気味に尋ねた。
「んー、そうだなー。一応、機密情報だしなー」
春奈は顎に手をやりながら、うーんとしばらく唸っていたが、レイナの鋭い視線に気付いて肩をすくめた。
「そんなに威嚇しないでよ。ま、少しだけなら話していっか」
彼女は咳払いをしてから、少し声のトーンを落として話し始めた。
「あのね、向こうの路地で一ヶ月くらい前に、女の子が車に轢かれて亡くなってしまった事故があったのは、知ってる?」
それは……まさに俺たちが調べようとしている事故のことだ。
「女の子って、何歳くらいの?」俺は慎重に言葉を選んで答えた。
「どうやら十八歳だったみたい……って、あ! これ以上は教えられないよ!」
一ヶ月前に車に轢かれた、十八歳の女の子。ほぼ間違いなく、そらののことだろう。どう話を進めたものか考えを巡らせていると、レイナが俺の腕を引っ張ってきて、春菜と少し距離を置いてからささやいた。
「ヒロキ、ぐずぐずしてないで早く行きましょう」
「いや……彼女が言ってるのは、きっとそらののことだ。協力すればそらのの情報が得られるかもしれない」
「でも、今はあまり警察に関わらない方がいいんじゃない? この人、なんかちょっと変だし」
レイナの言うことももっともではある。だが、一方で、そらのに関する情報をつかめる可能性を逃したくはない。正直な所、この女性警官はかなり怪しい人物ではあるが――。
「わかりました。俺たちで良ければ協力しますよ」
そう答えるやいなや「話がわかる子たちだね! ありがとう!」と俺の手を取り、強制的に豪快な握手してきた。
「とりあえず現場まで来てもらっていいかな?」春菜はそう言うときびすを返し、ご機嫌な様子でスタスタと歩き始めてしまった。
「彼女には、ヒロキがソラノの友人だってことは言わない方が良いと思う」レイナが再び俺の耳元でささやいた。
「もし言ってしまったら、取り調べの時間が増えて、ソラノのために割ける時間が少なくなってしまう可能性が高いでしょ」
レイナの言うことはもっともだった。もし関係者だということがわかれば、ともすれば警察署で詳しい話を、ということにもなりかねない。
「わかった」俺も小声で答えた。「あくまで、訊かれたことにだけ答える」
「おーい! どうかした?」気付くと春奈がこちらを振り返っていた。俺は素早く「いえ、何でもないです」と答えた。俺はレイナの顔を見た。レイナが小さく頷いたので、俺も頷き返した。
春菜に連れてこられたのは、やはり俺が思い描いていた場所だった。何の変哲もない、町の片隅にある路地。だが、あの日から、俺が一度も足を踏み入れられなかった場所だ。事故があったと思われる道路脇には、いくつもの花が添えられていた。ここで、そらのは自ら車に身を投げ出したと言われている。しかし、今となっては信じられない。
「キミは地元に住んでる人かな?」春奈の質問に「はい」とだけ答えた。
「じゃあ、この場所も通ったことある?」いつの間にか、彼女の俺を見る眼差しは少しずつ警察機関のそれになってきていた。「ええ、何度かは」
「七月十三日の午後九時頃はどう? 通ってる?」
そらのが事故に遭ったとされている日付と時刻。春菜の言葉に思わず「やっぱりそらののことか……」と呟いてしまった。
「ん? 何か言った?」春奈の表情から笑顔が消える。その場しのぎの嘘は言わない方が良いように思えた。
「いえ……その日は、この道は通ってないです」
これは本当のことだ。もしあの時一緒にここを通っていれば、と思う。あるいは防げた事故だったのかもしれないのに。
それ以上追及する必要が無いと判断したのか、春奈の眼差しが少し和らぎ「そっかー」とだけ答え、今度はレイナの方を向いた。「そっちの彼女は?」
レイナは静かに首を横に振る。「ここを通りかかるのは初めてだから」
「あー、そうなんだ。残念」
実際にはそれほど残念そうには聞こえなかった。仕事柄、こういった質疑応答に慣れているのだろう。
「もし友達とかで何か知ってる人が現れたら、ワタシに連絡くれないかな」
春菜は自身のMRDを操作した。俺の目の前にARディスプレイが表示される。MRDに搭載されているOS――テミスのネット上でユーザー同士が通信するためのアカウントの交換申請だ。
俺は「許可」と書かれた部分に触れる。これで通信が来た時に、誰からの通信なのかがわかるようになる。春菜から送られてきたアカウントは、警察庁の窓口に繋がるものと、春菜個人のMRDに繋がるもののふたつだった。
「わかりました。この警察庁のアカウントに連絡すればいいんですね」
「そうじゃなくて、ワタシに!」彼女は突如、語気を強めた。「ワタシのMRDに直接連絡くれればいいから!!」
あまりの剣幕に、俺は「はあ」と答えるのがやっとだった。
「じゃ、ヨロシクね!」勢いに押されているうちに、春菜はそそくさと立ち去っていった。
「何だったんだろう……。やけに自分に連絡をくれって強調してたな」
「よっぽど手柄でも挙げたいのかしら」
だとしても、なんだか引っかかるものがあった。
ともあれ、賑やかな女性警官が立ち去り、辺りの静けさはよりいっそう輪郭を際立たせていた。強烈な日差しが降り注いでいるのに、なぜか空気がとても冷たく感じられる。
路地の真ん中に立ち、そっと目を閉じる。少しでもそらのの気配を感じられるかと思ったが、感じるのは太陽の熱気と、ぬるい空気が頬に当たる感触だけだった。――ひどく静かだ。静かで、虚しい。
不意に、頭に強烈な痛みが走る。しばらくそのまま立っていると、重低音が徐々に近付いてくる気配があった。目を開けると、向こうの角から一台のトラックが曲がってくるのが見える。
――避けなければ轢かれてしまう。
頭の片隅ではそのことを理解している。しかし俺の瞼は、俺の理解とは裏腹に、ゆっくりと閉じられていくのだった。クラクションがけたたましく鳴らされるのが耳に届く――。
「ヒロキっ!!」不意に耳元でレイナの大声が聞こえた。次の瞬間、右手をつかまれ、強い力で引き戻される。俺とレイナはふたりして、道路の脇に思いっきり尻餅をついた。そのすぐ前を、トラックがタイヤを軋ませ、土煙をあげて通り過ぎていった。ああ、俺はまた――。
「もう! 何考えてるのよ」レイナはため息をついた。
「……ごめん」迷惑を掛けていることはもとより、一瞬、レイナの存在を自分の意識の範疇から外していたことに対して謝るべきだと思った。
「俺、そらのが居なくなってから、おかしいんだ。自分でも無意識のうちに、今みたいに動いてしまう瞬間がある。まるで何かに引き寄せられるみたいに……」
自分で言っていて情けなくなってきた。これ以上話しても良いことは無い。そう思って言葉を切った。
「……悪い。今の話は忘れてくれ」
「別に。なんとも思ってない」
レイナは伏し目がちにそう言った。彼女の左手はまだ俺の右手を掴んでいる。
「……でも、自分の命を粗末にする人間は好きじゃない」レイナの左手が強張るのを感じた。
レイナの手の温もりが、自分がまだ生きているという感覚を呼び起させた。俺も右手に力を込めると、レイナは目を見開いた。
「ちょ、ちょっと!」そう言うと、レイナは勢い良く手をふりほどき、立ち上がった。
「あっ……ごめん」
レイナはあさっての方向へと顔を向けてしまった。
「……いいから、自分で立って」
その言葉からは何の感情も読み取れなかったが、呆れられても仕方の無いことだ。俺はひとり立ち上がり、ズボンを手で払った。「ああ……だけど、今のでわかったことがある」
「わかったこと?」
「やっぱり、そらのが自分から車に飛び込んだ可能性を認めざるを得ない、ってこと」
この現代では、街の中心の道路はほとんど自動運転区域になっており、運転者ではなく自動車に搭載されたソフトウェアが目的の場所まで運転してくれる。だが、この辺りは街の中心からは離れていることもあり、その区域からは外れている。つまり、ここに車で来るには、運転者が自分でハンドルを操作し、自動車を運転しなければならない。
人間は完璧ではない。今みたいに日中で道の真ん中に立っている人間を避けるのは簡単だが、見通しの悪い夜に死角から突然人が飛び出してきたら、とっさに避けるのは難しいだろう。
だが同時に、この状況はもうひとつの可能性を示唆している――つまり、運転手の方が、そらのを故意にはねた可能性だ。そういえば、葵さんからそらのの事故について、何も聞いていないのを思い出した。誰が車を運転していたのか、その人を見つけ出せば、また真相に近づけるかもしれない。
ふと、MRDが“エリアシンク”によるデータ着信を知らせていることに気付いて我に返った。エリアシンクとは、送信者があらかじめ設定しておけば、ある限られた区域に相手が足を踏み入れることで、相手のMRDに自動的にデータが送られる仕組みだ。送信者は――
「そらの……」全身が粟立つのを覚えた。
「えっ?」
「そらのから、データが届いてる……!」




