9ー4 朱き夜
そう祈るように心の中で唱えた直後に、矢が発射された音と、風切り音。それも複数、俺の耳に届いた。
「お、っと」
その瞬間、今までの緩慢な動きからは考えられないほど迅速に、岩垣は身をひるがえした。彼は、ジャケットの胸ポケットに手を突っ込みつつ――少し体を屈めて、地面を蹴り、大きく後方へと跳躍した。
「流石に気付いてるよね、それは」
左足で着地すると、更に跳躍。ゆうに五メートルは後ろへ逃れた。彼は瞬く間に、キルポイントから脱出してみせた。先ほどまで岩垣が立っていた地点へ、クロスボウの矢が驀進し、そのまま矢は母屋の壁に突き刺さっていった。
「こんなのに引っかかると思われるなんてな。アマチュア扱いか」
呆れたように呟きつつも、岩垣の動きは止まらない。
「な……っ」
俺は咄嗟に、朱音の前に盾をかざした。直後、銃声が鳴り響いた。だが、数秒経っても、盾に何かが当たった手ごたえは無かった。振り返ると、後ろの朱音にも、銃弾は命中していないようだ。
「二重の罠とはな。良く考えたもんだが」岩垣の右手には、いつの間にか拳銃が握られており、その銃口からはうっすらと白煙が立ち上っていた。
「残念だったな。俺には通用しねえ」
その言葉とともに、岩垣の後ろで、何か、重いものが落ちる音がした。岩垣の背後で、火を上げ始めたそれは、先ほど秋月さんが操作していた、リベットガンを搭載したドローンだった。
秋月さんは、クロスボウだけでなく、ドローンも岩垣に差し向けていたのだ。二重の罠――万が一、クロスボウが避けられたとしても、ドローンが忍び寄って止めを刺す――そのはずだったのだろう。
「今の、なかなかカッコ良くなかった?」
大きくバックステップし、矢を回避しながら、体を捻り、背後を振り向いて、拳銃を抜いた。そのまま空中で銃撃、ドローンを撃ち落とし、着地。そんなことを、平然とやってのけたのか。
彼の行動は、こちらの行動を的確に読めてこそのものだ。全て予想しきっていなければ、回避することなどできない。こんな曲芸を平然とやってのけるまでに、一体どれほどの戦いを経験してきたのか。
「今の、結構しんどかったんだけど、やった甲斐があったわ」
「クソ……!」朱音は、まだ戦意を失っていないようだ。
「うんうん。いいねぇ、その目」
岩垣は、そんな朱音を見ながら、にやにやと笑っている。
「けど、まだまだだな。若いのはいいが、あんたたちのそれは、勢いだけだ」
「どういう意味だ」
岩垣は、両肩をすくめた。
「俺も時間稼ぎしてたってことさ」
その言葉と同時だった。俺たちの背後――製作所から、銃声が聞こえた。一瞬、秋月さんが撃たれる瞬間の映像が頭をよぎった。だが、これは銃撃戦の音だ。何種類かの銃声が混ざっている。
――そうだ。エージェントたちは、まだ二人、残っていた。
岩垣が現れたタイミングで、製作所に向かわせていたのだろう。しまった……!
「おっさん……っ! くっ……」歯を食いしばるようにして、朱音は岩垣を睨み付けた。
「ほお。今のはポイント高いぞ。戦いのことをそこそこ分かってるな。今、あんたたちが振り向いて、そっちの建物に向かってたら――俺は容赦なく、後ろから撃ってたからな」
「この下衆野郎……っ!」
「いいねえ。いいセリフだ。正義のヒーローって感じ」
――そのとき、ふっ、と。敷地内に表示されていたARディスプレイが、消失した。
聞こえた銃声は、一種類では無かった。秋月さんは恐らく、猟銃で応戦はした筈だ。残っていた二人のエージェントたちが、俺たちに近づいてくる気配はない。秋月さんは、エージェントたちを撃退できただろうか。それとも……。
「そんじゃ、邪魔者も居なくなったことだし、俺たちも本格的に始めるとするか」
そうして、岩垣が再び俺たちに近付き始めた。誰が罠を操作していたのか、分かっているのだろう。
「まさか……今更、英介のMRDを素直に渡せば生き残れるなんて、考えてないよな?」
今度は迷いなく、一歩ずつ確実に、俺たちとの距離を詰めてくる。
「これでも一応、社長なんでな。このままじゃ、部下に示しがつかないしさ」
もう、秋月さんの援護は望めないかもしれない。俺たちふたりで、やるしかない。
俺は、朱音の全身を守るように、盾を構える。岩垣は最初、銃を構えていたが、諦めたように肩をすくめると、ジャケットの裏ポケットにしまい込んだ。
「ぶっちゃけ、盾ってのは厄介なんだよな。こっちがせっかく銃持ってんのに、近寄らなきゃなんねーし、サシで正面から向き合ってる状態だしな」
彼の言葉通り、巨大な盾は、少し身を屈めれば全身を隠すことができる。撃たれても、全て防ぐことができる。だから、銃撃を諦めて、肉弾戦を仕掛けてくるつもりなのだろう。
「しかも、銃とは違って、衝撃に備えてれば、持ってるだけでも効果を発揮できる。若いヤツだとイキがって、不慣れな得物を持ちたがるもんなんだけどな。なかなかできるチョイスじゃねえ。そーいう意味だと、盾持った兄ちゃんは見所がある。なかなか惜しい人材ではあるんだが……」
岩垣は、首を左右に捻りながら言った。「ま、しょーがねえな」
こきり、こきりと、関節の音が鳴る。
「ヒロキ」俺だけに聞こえるような小さい声で、朱音が言う。「合図したら、アタシから盾を外して、離れてろ」
「でも、それじゃ、お前が……」
「昨日とは状況が違う。アイツは、アタシたちを本気で殺しにかかる。そうなったら、アタシはヒロキを守りきれる自信なんてない。だから、離れて、盾で自分の身を守ってろ」
俺は何か言い返したかった。だが……悔しいが、その言葉は正論だった。今から始まるであろう戦闘の中で、俺の存在はどう考えても邪魔者でしかない。
「それに……今こうして、アイツが銃を撃って来てない時点で、ヒロキは充分、役に立ってる」そう言って、朱音は微笑みを浮かべた。「だから、もういいんだ」
優しくて、穏やかな笑顔――朱音の言うことは、確かに正しいかもしれない。
だが、しかし――。
「そんじゃ、まあ――」肩を回しながらこちらへと近づいていた岩垣が、その足を止めた。俺たちとの距離は三メートルほど。既に、朱音の槍のリーチ内だ。
「――いくぜっ!」低い声で、岩垣はそう言い放ち――
「――ヒロキ! 早くしろ!」
朱音が俺へ怒鳴った。俺は、俺は――
「……くそっ!!」
盾を、朱音の前から外し、横に飛んだ。俺は、戦場から離脱した。そんな俺の動きに合わせるように、朱音は地面を蹴った。
「たあぁぁああああっ!」
月明かりを浴びた朱音の槍が、中空に残像を深く刻み込む。真っ直ぐに、全力を込めた一撃が岩垣へ放たれる。
「素直すぎるなあ!」その一撃を、岩垣は半身を僅かに逸らすことで回避した。まるで、槍のほうが彼を避けたかのように、切っ先が明後日の方向へ逃れた。
「お返しだ!」岩垣が身を屈めながら深く踏み込む。彼の腕が動く。そこは既に朱音の懐の中だ。岩垣の左手が槍の柄に絡みついてくる。朱音の槍を奪い取る気か。
「くっ……!」
だが、朱音の反応もまた、人間離れしていた。持ち手を極められると気付くや否や、体ごと素早く槍を引く。地面につけた足をバネのように弾かせて、後方へ体を流した。
「おやあ? 俺から離れていいのかな?」
そう呟いた岩垣の右手には、ジャケットから抜いた拳銃が握られていた。朱音が離れることを見越して、彼は右手をポケットに差し込んでいたのだ。
岩垣は、肉弾戦に付き合う気なんてなかった。最初から、銃で撃つタイミングを見計らっていたのだ。
邪魔者の俺は戦場から消えて、朱音の身を守る盾はないのだから――腰だめに構えられた銃が、朱音の方へと向けられる。その銃口から、閃光が迸り――
「ちぃっ!」朱音は自ら上体を崩し、地面に体躯を転がした。その直後、轟音が二発。朱音は辛うじて、銃弾を回避した。
「へえ! 今の、避けるか!」岩垣はどこか楽しそうにそう言った。
「食らえ!」朱音は土の中で旋転しながら、槍を薙いだ。下半身を狙った一撃。無理な姿勢からの足払いだが、重く鈍い風を伴っている。切っ先に押しのけられた空気が、悲鳴のような音を上げる。仮に当たれば、容易に肉を切り裂くだろう。
「ははっ! そう来るしかないもんなぁ!」
どこか楽しそうな声色でそう言いながら、岩垣は小さく後ずさる。まるで足元の水たまりを回避するように軽々と、これも躱した。
完全に、槍のリーチを見切っている。朱音の行動を、何手先も読んでいるがゆえなのだろう。次の手が分かるからこそ余裕をもって回避でき、反撃にも転じられるのだ。
「クソ……っ! まだだ!」
朱音は槍を振り回すのと同じく、コマのごとく全身を回しながら、その遠心力を利用して上体を起こした。両足に力を込め、バランスを取りながら、再び地面を蹴った。岩垣の拳銃が火を噴く前に、距離を詰めなければならない。
「てやぁあっ!」
朱音は槍を切り下ろす。槍を奪われることを嫌ってか、槍の切っ先を岩垣の喉へ向けた、正眼からの袈裟切りだ。
「はははっ! そうだ! 俺から離れるなよ、嬢ちゃん!」
岩垣は高らかに笑う。彼は三度、足をわずかに引くことで、穂先から逃れる。
「嬢ちゃんみたいなのは、まったく好みじゃあないんだが――それでも、女に追いかけられるってのは悪い気分じゃないねぇ!」
その右手の銃が、再び朱音の体の方へと向けられた。
「ふざけるな……っ!」
朱音は、岩垣へ体当たりするような勢いで、更に距離を詰めた。
「はぁぁあッ!」
それはまるで、槍が分裂したような刺突だった。三連、四連、五連――突き出しては腕を引き、息継ぎもせずに再び突き出す。顔を狙い、銃を持つ右手を狙い、心臓を狙う。フェイントを混ぜつつ、肉体の急所へと切っ先を撃ち放っていく。
宵闇の中、朱音は幾重にも残像を伴わせた刺突を撃ち続ける。岩垣にとっては、巨大な剣山が迫り来るのと同じだろう。右手を切りつけられまいと、彼は背後へ下がり続けるしかない。朱音が踏み込み、岩垣は逃げる。
一見すると、朱音が押しているように見える、だが……。
「おらあっ!」朱音の顔には脂汗が浮き、口から放たれる気合には、息切れと焦燥が滲み出ている。
「おーおー、激しいなぁ」
一方の岩垣は、汗ひとつ汗をかいておらず、挑発をし続ける余裕があった。彼はただ、上半身を反らすだけで、朱音の攻撃を避け続ける。岩垣に銃を撃たせない。かつ、槍を奪わせない。そんな条件下で、朱音は戦い続けなければならないのだ。そうするには、とにかく、手数を増やし続けるしかない。それは、体力の激しい消耗を意味していた。
「頑張るねえ。でも、それ、いつまで保つかなあ?」
朱音の素早い攻撃をかいくぐるために、銃の照準こそできていないものの――岩垣はその体さばきのみで、槍をいなしてゆく。その動きは、浮き草の上を歩くような軽妙さだ。
――考えるまでもなく、朱音はジリ貧に追い込まれている。
恐らく、朱音はこのままだと、体力が続く限り槍を振るい続け――そしていつか、限界を迎える。
(朱音から離れてしまって、本当によかったのか……?)
岩垣の右足が地面を滑った。朱音へ向けての前蹴りでは無い。地面へスコップを突き立てるがごとき――抉りこむような蹴り込み。まるで間欠泉のような勢いで、黒く湿った土が舞い上がった――先ほど、エージェントがやってみせたような、土埃による目つぶし。しかし、先ほどのそれよりも強烈な土埃が、朱音の目を襲った。
「ぐっ、ああ……っ!」朱音は咄嗟に頭を伏せる。踏み込みとともに振り下ろした槍は、既に放たれていた。だが、目標を失った切っ先は、虚空をただかき切るだけだった。
「卑怯、者……っ!」
――そして、一時的とはいえ、視力を失った朱音は、もはや格好の的でしかなかった。
「詰みだな」岩垣が、拳銃を構える。「カッコつけて言うと、チェックメイトだ」
その拳銃は、朱音の心臓がある付近へと向けられている。
「……っ!」朱音はなんとか射線から逃れようとするが――目を潰されて、半ば混乱状態にあるのだろう。足元がふらつき、体勢が不安定だった。
――間に合わない。このままでは、朱音は死ぬ。銃弾に撃たれて。
だが、ひとつだけ――朱音を助けられる道がある……!




