8ー2 小さな狼煙
颯爽と歩いて行く朱音の後を、黙って付いていくことにした。
そして、森の奥を抜けると、そこは開けた崖の上だった。目の前に広がる景色に、俺は思わず息を呑んだ。いつの間にか太陽は沈み始め、世界が茜色に染まっていく。
「ここ、前にエマと探検したときに見つけた場所なんだ」
「確かに、これはすごいな」
「だろ?」朱音は得意げな顔で俺にそう言うと、一人崖の端まで歩いて行った。
夕日に照らされる朱音と、その向こうに広がる雄大な景色。それは、なんだか俺を不思議な気持ちにさせた。どこか神々しさを感じ、どこか懐かしさを感じ、どこか寂しさを感じる――そんな不思議な感覚だ。
「今日か明日に、もしかしたら死ぬかもしれねーけどさ」向こうを向いたままで、朱音がぽつりと話し始める。「さっきみたいに、あーやって笑えるってのが、なんか嬉しくてさ……逃げてたら、今頃、笑うなんてこと絶対に出来なかった。あー、逃げなくて良かったなあ」
朱音の独白のような言葉。その後ろ姿に、俺は何も言うことが出来なかった。大切な人たちを助けられず、逃げるしか無かった少女。その少女が今、逃げないという決断をし、それを心の底から良かったと思っている。だが、その言葉を聞いて、俺は――。
「って、なに泣いてんだよ?」
振り返った朱音にそう言われて、俺は目元に手をやった。
「あれ? ほんとだ……なんだ、これ」
最初は、自分でも気付かなかった。だが、気付いてからは、目元から溢れ出る涙を止めることが出来なかった。俺は慌てて両手で目元をこすった。
「はは、なんか、この景色の中に立つ朱音が、すごく綺麗だったから……」
俺は苦し紛れにそう言った。そう思ったのもまた事実だからだ。最初出会った時、朱音はとてつもなく強い存在であるかのように見えた。いや、実際紛れもなく強いだろう。だが、エマのことを案じ、過去のことで落ち込み、悩み……そして笑う目の前にいる少女は、紛れもなく一人の女の子なのだ。
「は、はぁ!? なにいってんだよ! おまおま、お前! アホか!」
朱音はあまりにも分かりやすい反応をして、そっぽを向いた。
「……おい、ヒロキ」
「ん?」
「て……」
「て?」
「手だよ! ほら!」
そう言って、朱音は、俺に右手を差し出した。
「……昔、アタシが泣いている時、父さんがやってくれたんだ。誰かと手を握ると、心が落ち着く。だから、ほ、ほら……」
夕日に照らされているせいか、朱音の顔がやけに赤くなっているように見えた。俺はゆっくりと手を伸ばして、朱音の手を取る。
「ふおっ……」手を握ると、朱音はよく分からない声を発し、一瞬たじろいだ。だが、少しして、朱音の手が強く握り返してくるのが分かった。
「ヒロキ……お前のことは、アタシが守ってやる」
そう言う朱音の手からは、小さな震えが伝わってくる。
「なんか、立場が完全に逆だな、俺たち」
「そりゃしかたねーだろ。言っとくけどな、アタシだって怖いんだ」
朱音はそう言って俯いた。徐々に手を握る力が強くなっていく。
「……だから、ヒロキがここに居てくれて、よかった」
「朱音……」
朱音の言葉に、俺は再び目頭が熱くなった。
「お、おい……何でまた泣くんだよ」
「……ありがとう、朱音」
俺は朱音の手を、強く、強く握り返した。
溢れ出そうな涙を、こぼしてしまわないように。
朱音の手から伝わってくる、この温かさを忘れないように。
「なっ……ちょっ」
朱音は最初戸惑いを見せていたが、やがて諦めたかのように、手から力が抜けるのが分かった。
「ったく、もう……」
それから俺と朱音は、手を繋いだまま、何も言わずに、ただ目の前の風景をしばらく眺め続けた。
*
その後、俺たち三人は無言で鍋を食べ続けていた。最後の晩餐、とでも言うかのような雰囲気が漂う。みんな、緊張した面持ちだ――もちろん、俺を含めて。
「……今日も、昨日と同じように巡回をしよう」沈黙を最初に破ったのは秋月さんだ。
「そうですね……」
朱音は答えることなく、茶碗の中の鶏肉を口に運び、「はあ、うま」と呟いた。
「おい、朱音。聞いてるのかよ」
「ああ? 聞いてるよ」朱音は面倒くさそうにこっちを見た。「これが最後になるかもしれねーんだから、食事くらい好きにさせろよ」
「お前なあ」
(朱音らしいというかなんというか……)
そんなことを思っていると、秋月さんも「まあ、そうかもな」と神妙に頷いた。
「私も楽しむとするか」そう言って、秋月さんは席を立ち――一升瓶を手に戻ってきた。
「これを開ける時が来ようとはな」
「秋月さん、それ、日本酒ですか?」
「ああ、そうだ」ゴト、と一升瓶を床に置きながら秋月さんが頷いた。緑色の透明な瓶に〝綾花〟と書かれた品の良いラベルが貼られている。
「おお、秋月のおっさん、やるなー!」
「これは英介が送ってくれた日本酒なんだよ。さすがは九州ってところだな」
「へえ……」朱音はどこか懐かしげな面持ちで〝綾花〟の瓶を眺めた。「父さん、そういうとこマメだったからなあ」
「今日呑む酒として、これ以上のものはないだろう」そう言って、秋月さんは瓶の蓋を開ける。小気味の良い音が部屋に響く。見ると、一升瓶の近くに置かれたガラス製の小さなお椀――お猪口というやつだ――が、3つあるのに気付いた。
「あの、お猪口が3つあるんですが……?」
「君たちも呑むだろ?」当然そうするだろうという口調で秋月さんは言い放った。あれ、この人ってこんな感じの人だったっけ。
「はは、なんか、お通夜みたいだな」
朱音の言葉を聞いて、俺は祖父が死んだ時のことを思い出した。祖父の通夜のとき、大人たちは夜通しお酒を飲んで、楽しそうに話していた。その時も、大人たちは大きな瓶のお酒――おそらく日本酒だ――を呑んでいたな……。
「ふむ、確かにな……」そう言って秋月さんは膝を叩いた。「やろうじゃないか、英介の通夜、今日、ここで。あいつの葬式、してないんだろ?」
朱音は何も言わなかった。英介さんは、行方不明となっているままだと聞いた。ということは恐らく、まだ死んでいないとされている、ということだろう。
だが、実際のところ、生きている可能性は限りなく低い――それは、誰よりも朱音本人が分かっているはずだ。俺は静かにお猪口に手を伸ばした。
「俺も、良ければ参加させてくれよ。朱音」
朱音は俺の方を見て――
「ふっ……」柔らかく微笑んだ。そして、朱音もお猪口に手を伸ばした。
「父さんに、乾杯だ」
俺たち三人は、手に持ったお猪口で軽く乾杯し――そして、静かに笑い合った。
「それにしても、朱音はもうお酒を嗜んでいたとはな、流石九州出身といった……」
「あ? そんなわけねーだろ。今日初めて呑むよ」
「あ、そうか。朱音って未成年だもんな」
じゃあ、あとは俺がもらおう――そう言おうとしたのだが。
「そうだけど、いいじゃねーか。いただきまーす」
朱音はそう言うと、お猪口に満たされた日本酒を一気に飲んだ。
「おいおい、そんな一気に呑んだら……」
朱音は自分の手にしているお猪口をしばらく見つめてから、「なんだこれ、うめーなー!」と言い放った。
「流石は英介の娘だな」そう言って、秋月さんは朱音のお猪口にもう一度日本酒を入れようとする。
「ちょ、ちょっと、秋月さんまで……」
「なんだよ~。ヒロキ、お前も呑めよ~」
「ぐ……」そう言われると、俺も呑まないわけにはいかない。俺は自身のお猪口に満たされている日本酒をくいっと飲み干した。
「……あれ、本当に美味しい……」鼻に抜ける甘い香り。喉を通った時の滑らかさ。日本酒でよくある、のどを通った後のうっとした感覚もなく、純粋に美味しいと感じられるお酒だ。
「特別純米酒だからな、その辺の居酒屋で出る安酒とは、ひと味違うさ」
「いいぞいいぞ~! じゃんじゃん呑もうぜ!」
そう言って、朱音は二杯目の日本酒をするりと呑んでしまう。
「うん、確かにうまい。あいつ、昔っからお酒にはうるさかったからなあ」
「ほらほら、ヒロキもまだいけんだろ? お猪口出せよ」
そう言われて、朱音にお酒を注がれたそれを、俺はまた飲み干す。身体の中が温かくなっていくのを感じる。美味いお酒に美味い鍋。これで命の危険が無ければ言うことなしだったのだが。
(――いや、むしろ、か)
むしろ、命の危機があるからこそ、みんな、出来るだけ不安を押さえ込もうとしてるのだろう。それに、こう言った待ち方も悪くない。何が起こるにしろ、朱音が楽しそうにしているのを見れて、嬉しいと感じるのも事実だ。
「お猪口が空いてるぞ、ほら」
そう言って、俺は朱音のお猪口に日本酒を注いでいった。




