88,伸にとっての「ユウ」と訳がわからなくなった二人とこんなことになったのは…
いや。存在したとしても、多分、今とは違う姿で、伸と出会うこともなかったのだろう。
それがすべてだ。自分が行彦を否定することは、自分自身を否定するのと同じことだ。
それなのに自分は、伸の心の中に、今も行彦がいることが辛くてたまらない。伸の過去と、長い間の孤独や痛みまで否定しようとする自分は、ひどく自分本位で傲慢だと思う。
それでも、どうしても、伸に自分だけを見てほしいと思ってしまう。伸が、自分のことを行彦と重ねて見ているのかと思うと、胸が引きちぎれそうに辛い。
伸が、青ざめた顔で言う。
「ユウは、お墓の前で倒れたとき、ユウの中から行彦が出て行ったんだと言ったね。でも俺は、実は違うことを考えていた」
「……え?」
「俺はあのとき、行彦と有希が同化したんだと思った。二人は、完全に一つになったんだと。
だから、行彦としての記憶が、すべてなくなったんだと思ったんだよ。なぜなら、今この世に生きているのは有希だから」
伸は続ける。
「二人の人格が共存していたとき、俺は、しばしば混乱した。今自分は、いったいどっちの人格と話しているのかとね。
それで、君に新たな呼び方を考えてもらったんだ。君は、二人をまとめて呼ぶための名前を、『ユウ』と決めた」
「あ……!」
「俺にとっては、君はユウだ。同化して、名実ともに、ユウになったんだと思っている。
俺には、行彦と有希を切り離して考えることなんて出来ない」
……そうなのか。有希は、不思議な気持ちで、伸の顔を見つめる。
自分は、もうずいぶん前から、元の自分とは別の人間になっていたのか。伸の話によれば、西原有希は、行彦と同化して、ユウという新たな存在になったのだ。
言われてみれば、伸と出会ってから、自分は変わった気がする。以前は、人の気持ちを忖度することなどなかったし、こんなに泣き虫でもなかった。
それは、伸に恋をしているせいだと言えないこともないが、伸を思う気持ちは、行彦も同じだろう。
では、伸のことが好きでたまらないのは、有希ではなく、行彦なのか? そもそも、有希は行彦の生まれ変わりなのだし、では、自分が嫉妬しているのは、自分自身なのか?
「訳がわからなくなったよ……」
そう言いながら、また涙がぽろぽろとこぼれる。それがどういう涙なのか、もう自分でもわからない。
伸が言う。
「ユウ、ごめん。君が混乱するのは、よくわかるよ。俺の言っていることが信じられない気持ちも。
俺が行彦と愛し合ったことは本当だし、君と行彦が生き写しであることも本当だ。でも、君が記憶を失った今、それを知っているのは俺だけで、証明するすべはない」
「違うよ!」
有希はあわてて言う。
「伸くんのことを疑っているわけじゃないよ。ただ、自分が誰なのか、今感じているのが、誰の気持ちなのか……」
伸が、苦しげな顔で言った。
「俺は、行彦を思い続けていたのと同時に、大胆で無邪気な有希のことも、とても愛しいと思った。あのときは気づかなかったけど、もしかするとそれは、行彦とは関係ない、新たな恋だったのかもしれない。
でも、あのときは深く考えることもなかった。今も、二人とも愛しているし、ユウのことも愛している」
そこで、伸はふっと笑った。
「俺も、訳がわからなくなって来たよ」
二人の間に沈黙が訪れた。口をつけないままのコーヒーは、多分もう、冷たくなっているだろう。
あぁ……。有希は思う。今日は、待ちに待った日曜日で、たくさん愛し合って、一緒にシャワーを浴びて、伸の手料理を食べて、お揃いのセットアップを着てベッドに入り、朝まで、伸と寄り添って眠るはずだったのに……。
こんなことになったのは……。そうだ。生野のせいだ。あいつ……。
そこで有希は、ふと思いついて、伸に聞いた。
「今日、生野がレストランに行ったんでしょう? まさか、沙也加さんたちの前で……」




