87,いい香りのタオルと「聞きたいこと」と奇妙な話
有希が、生野とのことを伸に知られたくないと思っているのを知っていて、直接会いに行くなんて。
「ユウが俺と付き合っていることは知っているし、自分が入り込む隙間がないのはわかっているけど、それでもまだ、ユウのことが好きだって言っていた。
俺に、ユウのことだけを見て、大切にしてほしいって、真剣な目をして……」
「あぁ……」
そんなことをわざわざ言いに行かなくてもいいのにと思う反面、そこまでした生野の気持ちが切ないし、申し訳ないとも思う。
「ユウ?」
伸の声に、有希は顔を上げる。
「俺はユウのことを大切に思っているし、とても愛しているけど、ユウは悲しいの?」
「あ……あぁ」
嗚咽を止めることが出来ない。
「伸くん。僕は……」
伸が、静かな声で言う。
「もしも思っていることがあるなら、俺に話してくれないかな。なんでも聞くから」
「伸くん……!」
我慢出来ずに、有希は泣き、しゃくり上げる。胸が苦しいが、それが悲しいせいなのか、ただ泣き過ぎて苦しいだけなのか、よくわからない。
伸が立って行って、持って来たタオルを渡してくれた。柔軟剤のいい香りがするタオルを顔に押し当て、有希はしばらくの間、泣き続けた。
やがて、少しずつ激情が収まって来た頃になって、有希は考える。
あのことを、伸に話してもいいのだろうか。話した途端、伸との関係が破綻してしまうのではないか。
だが、一人で辛い思いを抱えたまま伸を愛し続けることに、自分は耐えられるだろうか。……話すならば、今しかない。
タオルから顔を上げると、心配そうに見つめている伸と目が合った。
「伸くん。聞きたいことがあるんだ」
「うん」
「伸くんは、今でも……」
この先を言ったら、もう後戻り出来ない。でも。
「今でも、行彦のことを愛しているの?」
伸が、はっとしたように目を見開く。
「ユウは、ずっとそのことを……」
あぁ。もう駄目だ。再び、有希の目から涙が溢れ出す。
「そうだったのか。ずっと辛い思いをさせていたんだね」
伸は、視線を落とす。有希は、あわてて言った。
「伸くん、ごめん。今のは忘れて!」
これで伸に嫌われてしまったら、もう生きて行けない! 伸が、自身も辛そうな顔でつぶやいた。
「あのとき、ユウが記憶を失わなければ……」
有希は、伸と出会った当初のことは、何も覚えていないのだ。すべて、後から伸の話を聞いて知ったに過ぎない。
有希にわかっているのは、何も覚えていないのに、伸のことが好きで好きでたまらなくて、その気持ちが、今もずっと続いているということだけだ。
伸は言う。
「ユウの中で行彦の記憶が戻ったとき、一つの体の中に、行彦と有希、二人の人格が共存していた。そのことに、ユウは矛盾も混乱も感じていないように見えた」
そうなのだ。有希は、行彦の生まれ変わりなのだ。しかも行彦は、伸と愛し合っていたとき、すでにこの世の者ではなかった!
有希が記憶を失った後、伸が有希と付き合うことをかたくなに拒んだ理由もそれだった。伸は、行彦だったときの記憶がない有希を、自分のもとに留め置くことをよしとしなかったのだ。
その話を聞いた当初は、有希も、ひどく動揺した。そんな奇妙な話は、にわかには信じられなかった。
だが、桐原行彦という人物が実在したことは確かだったし、伸が、わざわざ有希に嘘をつく理由がない。そもそも、初めは固く口を閉ざしていた伸に、しつこく言って聞き出したのは、有希自身だ。
すべてを知ってもなお、伸のことが好きでたまらないのは、やはり自分が、行彦の生まれ変わりだからなのかもしれないと思った。そして伸も、行彦の生まれ変わりだということを差し引いても、有希本人を愛していると言ってくれたのだった。
自分は、行彦の生まれ変わりだからこそ伸に出会ったのだし、伸を愛し、愛されている。行彦なくして、自分はこの世に存在しないのだ。




