86,ゆっくりと歩き出すことと早く伸に会いたいことと心臓がぐりんと飛び跳ねること
「そんな顔するなよ。伸くんと仲良くな」
生野に、何か言葉をかけたいが、何か言うと泣いてしまいそうで、有希は、ただ黙ってうなずく。
生野が、右手を差し出したので、その手を握ると、ぎゅっと力強く握り返して来た。
「じゃあ」
「……じゃあ」
「だから、お前が泣くことないだろ」
生野の言葉に、結局こぼれてしまった涙をぬぐいながら、やっぱりうなずくことしか出来ない。こんなときに泣いてしまう自分が、本当に情けない。
生野が、にっと笑って言った。
「ここで見送ってるから、先に帰れよ」
「え?」
「見送らせてくれ」
「……わかった。」
有希はうなずき、生野の顔を見つめる。生野が、もう一度、満面の笑みを作る。
「じゃあ」
有希の言葉に、生野が大きくうなずいた。有希は、彼に背を向け、ゆっくりと歩き出す。
家に帰り着くと、風呂上がりでバスローブをまとった母が、ミネラルウォーターを飲んでいるところだった。
「こんな時間まで、安藤さんのところ?」
母の言葉には、かすかな棘が感じられる。
「違うよ。友達が、学校をやめて引っ越すことになったから、送別会」
二人きりの送別会ではあったが。表情を和らげた母が言う。
「そうなの。お腹は?」
「空いてない」
「そう。それなら、早く寝なさい」
「わかった。おやすみなさい」
徹夜で生野と話していたので、さすがに疲れたし、眠い。今日はもう日曜日。夕方には伸の部屋に行き、今夜は泊まるのだ。
有希は、顔を洗って歯を磨くと、パジャマに着替えてベッドに入り、そのまま昼過ぎまで眠った。母が用意しておいてくれた料理を食べて、シャワーを浴びると、もう家を出る時間になっていた。
――これから家を出ます。早く伸くんに会いたいな。
有希にしては短いメッセージを伸に送ってから、家を出る。昨日は、ずっと生野と一緒だったので、メッセージを送ることが出来なかった。
昨日はいろいろなことがあったし、生野の気持ちや、もう、彼と会うこともないのだと思うと、とても切なかった。
だが、メッセージを送った途端、気持ちが切り替わる。早く伸に会って、顔を見て、キスをして、たくさん甘えたい。
夕方の電車に揺られていると、返信があった。
――今仕事が終わったところ。部屋で待っています。
いつもの素っ気ないメッセージも、伸らしくてうれしい。電車が駅に着くのが待ち遠しい。
「伸くん!」
玄関に入るなり、有希は、伸に抱きついた。伸も、いつものように、ぎゅっと抱きしめてくれる。
だが、キスをしようと顔を上げたとき、伸が言った。
「今日、生野くんがレストラン来たよ」
「……えっ?」
心臓が、ぐりんと飛び跳ねる。
「あの子、やっぱりユウの同級生だったんだね」
どうしよう。あいつ、なんだって、そんなことを。動揺して立ち尽くす有希に、伸が言った。
「上がって」
急に手足が自分のものでなくなってしまったようだ。ぎくしゃくしながら靴を脱ぎ、部屋に上がると、伸が、手に持っていたバッグを受け取り、背中のデイパックを下ろしてくれた。
「今、コーヒーを淹れるよ」
どうしよう……。椅子に座りながら、有希は泣きたい気持ちになる。
カップの一つを有希の前に置き、椅子に座った伸に向かって、有希は言った。
「伸くん、違うんだ。僕は……」
コーヒーを一口飲んでから、伸は言う。
「生野くんから聞いたよ」
早くも泣きそうになりながら、有希は言いつのる。
「違うんだよ。僕は、あいつに伸くんのこと話すつもりなんてなかったのに、あいつが……」
言い終わらないうちに、涙がこぼれてしまった。
「伸くん。怒らないで……」
涙をぬぐう有希を見て、伸が微笑んだ。
「怒ってないよ」
そしてまた、コーヒーを飲む。有希の涙は止まらない。
「彼が言っていた。嫌がるユウにあれこれしつこく言って、俺のことを聞き出したって。だから、ユウは悪くないって」
「だけど、なんで伸くんのところになんか」




