80,生野が切り出したことと「お願いしたいこと」と小さな美術館
「お決まりになりましたら、お声をかけてください」
席に案内してくれたウェイトレスが、メニュー表を置いて立ち去ると、さっそく生野が、にやにやしながら言った。
「今日は彼氏とデートじゃなかったか?」
有希は、生野の顔を軽くにらむ。
「この時間は、仕事中だって知ってるくせに」
ははっと生野が笑う。
「俺がおごるから、なんでも好きなもの頼めよ」
「いいよ。この前もおごってもらったし」
パークレストランでのことだ。
ちょっと気まずそうな顔をしてから、生野が言った。
「お前んちって金持ち? まぁ、クラスのやつらは、たいてい金持ちの息子か」
生野に、家の話をしたことはないが、お金に困ったことがないのは事実だ。続けて、何か言いかけてから、気を取り直したように生野が言った。
「とりあえず、なんか頼もうぜ。俺、ちょっと腹が減ってるから、ピザトーストとコーラにするかな」
「僕は、じゃあ……コーヒーフロート」
なぜ急に学校に来なくなったのか聞きたかったが、生野が何も言わないので、もりもりピザトーストを食べる彼を見ながら、有希は、コーヒーフロートのアイスをちびちびと掬って舐めた。
あらかた食べ終わった頃、ようやく生野が切り出した。
「俺、学校をやめることになった」
「えっ、どうして!?」
ふぅと息を吐いてから、彼は話し出す。
「親の会社が倒産したんだよ。それで、引っ越すことになって」
有希は、スプーンを受け皿に置いて言った。
「引っ越すって、遠くなの?」
「それは、まだわからない。もしかすると、愛知の親戚のところに行くかもしれない」
「そんな……」
思わずつぶやいた有希を見て、生野がにやりとした。
「あれ、俺との別れを惜しんでくれてる?」
「それは、まぁ……」
突然のことに驚いたし、親の会社が倒産したというのは心配だ。別に仲たがいをしたわけではないし、遠くに引っ越すかもしれないというのならば、なおさら。
「今のお前の言葉だけでも、けっこう満足だけど、ちょっとお願いしたいことがあってさ」
「何?」
「あのさ。ちょっと照れくさいんだけど、引っ越す前に一度、一緒に出かけないか? 思い出作りっていうか……」
有希は、うつむいて、きまり悪そうに人差し指で頬を掻いている生野の顔を見つめる。
「いいよ」
有希の言葉に、生野が顔を上げた。
「やった」
生野は、行きたい美術館があるのだと言った。今、好きな画家の個展が開催されているのだと。
絵画鑑賞の趣味があるとは、少し意外だったが、考えてみれば、生野のことは何も知らないのだ。次の土曜日に行く約束をし、そのときのために連絡先も交換した。
その小さな美術館は、住宅街の路地を入ったところに、ひっそりと建っていた。
「こんなところに美術館があるなんて、ちょっとわからないね」
有希の言葉に、生野は、どこか得意げに言う。
「だろ?」
「前にも来たことあるの?」
「あぁ。今日で三回目かな」
「そんなに」
どうりで、わかりにくい場所にあるのに、少しの迷いもなく歩いて来られたわけだ。
入り口に、「夭折の画家・香堂黎展」とある。
「こうどう、れい?」
「あぁ」
夭折というからには、もう亡くなっているのだろう。入場料を払って中に入ると、ほかに客はなく、細長い部屋の壁に、たくさんの絵が展示されている。
それらはすべて、繊細なタッチで描かれた、油彩の人物画だった。
背の高い生野の後ろに続いて、絵の前を進む。生野が静かな声で話す。
「何年か前に、初めてネットで見つけて、この人の絵が大好きになったんだ。三十代で亡くなっていて、絵の数はそれほど多くないけど、ここで、定期的に個展が開催されるたびに見に来てる」
「へぇ……」
描かれている人物は、どれも愁いを帯びた表情をして、どこか儚げでありながら、何か心に訴えかけて来るものがある。
先を進む生野が、一枚の絵を指して言った。
「これ、見てくれよ」




