79,自分はまだ子供だと思うことと生野が学校に来なくなったことと背後から声をかけられたこと
翌朝早くに家に帰ると、母は起きて待っていた。ダイニングルームに入って行った有希を見て言う。
「おかえりなさい」
有希は、うつむきながら言った。
「ただいま。約束を破ってごめんなさい」
「そうね。泊まるのは日曜だけっていう約束だものね」
「あの、本当にごめんなさい。そんなつもりはなかったんだけど、うっかり眠っちゃって」
母が怒って、伸と会うことを禁じられたらどうしよう。
だが、母は言った。
「安藤さんが、心配で帰せないって言ったのよ。とても落ち込んでいるようだから、一人の家に帰すのはかわいそうだって」
「え……?」
伸が、そんなことを。母が、心配そうな顔をして言う。
「どうしたの? 学校で嫌なことでもあったの?」
「嫌なことなんて、何もないよ」
有希はシンクで手を洗い、朝食の用意がされた食卓の椅子に座る。
「ただ、僕は今まで、人の痛みがわかっていなくて、自覚しないまま、いろんな人を傷つけていたかもしれないって思ったら、辛くなって……」
「そうなの。それで落ち込んでいたの?」
母の言葉に、こくりとうなずく。母が微笑んだ。
「でもそれは、有希が少し成長したっていうことかもしれないわね」
「そう、なの?」
母が、トーストとバターを有希の前に置く。
「そうよ。まだまだ子供だと思っていたけど、そうやって、少しずつ大人になって、いつかママの手を離れて行くんだわ」
「そんな。僕は、ずっとママのそばにいるよ」
「あら。安藤さんのそばじゃないの?」
冗談めかして言いながら、母の笑顔が、どことなく寂しげに見えるのは、気のせいだろうか。
「ママ!」
わざと大きな声で言いながら、ふと思う。もしかすると自分は、母のことも傷つけているのだろうか。
人は、誰かを傷つけずには生きて行けないのか……。
ともかく自分は、母にも伸にも愛され、大切にされているのだ。
落ち込んでめそめそしている有希を、誰もいない家に帰すのはかわいそうだと思ってくれていた伸。昨日、噴水の前で会ってからずっと、有希を気遣い、とても優しくしてくれた。
それに比べて、今さらどうにもならないことを気に病んで、伸にも母にも心配をかけてしまった自分は、やっぱりまだ子供だと思う。
「彼」のこともそうだ。伸と「彼」が、かつて愛し合っていたことは事実だし、そのことで伸は、とても長い間、辛い思いをして来たのだ。
それなのに、伸の心の中の「彼」に嫉妬しても仕方がない。それでも伸が、有希のことを深く愛してくれていることもまた、事実なのだ。
学校に着いて教室に入ると、有希は、思わず生野の姿を探した。自分の席に着いていた生野は、有希に向かって片手を上げて微笑んだが、そばに寄って来ることはなかった。
それきり、生野と話をすることはなかった。生野とのことは終わったのだ。そう思っていたのだが。
しばらくして、突然、生野が学校に来なくなった。クラス委員長の生野は、今まで学校を休むことはほとんどなかったはずだ。
気になって、休み時間に、生野の隣の席のクラスメイトに、どうしたのか知らないかと聞くと、彼は言った。
「さぁ、知らないな。あいつとは、特に深い付き合いがあったわけじゃないし。最近は、お前のほうが親しくしてたんじゃないの?」
言われてみれば、生野も、有希と同じで、あまり群れないタイプだったかもしれない。生野の連絡先を知らないので、それ以上のことは知りようもなかった。
自分が原因なのではないかと思うほど、有希は自惚れてはいないし、生野は、そんなやつではないと思うが。
数日後の放課後、駅の改札を通ろうとしていると、背後から声をかけられた。
「西原」
振り向くと、私服の生野が立っていた。驚いている有希に、彼は言った。
「久しぶり。なぁ、よかったら、ちょっとそこのカフェに入らない?」
「いいよ」
言われるまま有希は、生野の後に続いて、駅前のカフェに入った。




