68,無理矢理涙を押し戻すことと午後の授業をサボることと会いたくてたまらないこと
それは、いつでも心の奥に、小さな棘のように刺さっている。どんなに伸に愛され、お互いの体を貪り合ってもなお、決して忘れることの出来ない「彼」の存在。
だが自分は、それを承知の上で伸と付き合っているのだ。伸の心の中から、「彼」を消し去ることは不可能だし、「彼」がいなければ、二人が出会い、付き合うこともなかった。
だから、それについて不満を持つのは筋違いだし、口に出してはいけないこともわかっている。有希は、無理矢理涙を押し戻して言った。
「わかった」
今日の空は、有希の心と同じ、どんよりとした曇り空だ。屋上のフェンスに背中を預け、だらしなく床に足を投げ出していると、またも生野がやって来た。
有希は、心の中で舌打ちをする。ここはもう、憩いの場ではなくなってしまったようだ。
そのまま見ていると、生野はそばまで来て、当たり前のように隣に腰を下ろした。そして、顔だけこちらに向けて言う。
「今日はどうした」
それはこっちのセリフだと思いながら黙っていると、生野が言った。
「やけに暗い顔してるじゃないか。彼氏と喧嘩でもしたのか?」
どうせ何を言っても混ぜっ返されるに決まっている。有希は、半ばヤケになって言った。
「喧嘩なんてしない。ラブラブだよ」
生野は、ちょっと意外そうな顔をした。
「そうか」
「そうだよ」
有希は、ため息をつく。もう黙ってくれと思うが、案の定、生野には通じない。
「じゃあ、なんでそんな、泣きそうな顔してるんだ」
「泣きそうな顔なんて……」
まったく、エロい顔だとか泣きそうな顔だとか、いちいちうるさいやつだ。いらつく一方で、そんなことを言われると、本当に泣きたくなって来た。
思わず、じわりと涙が滲み、またもそれを目ざとく見つけた生野が言う。
「おい、マジかよ」
有希は、あわてて顔を背けた。が、生野が、無遠慮に顔をのぞき込んで来る。
「大丈夫か?」
有希は、生野に背中を向けて言った。
「僕のことは放っておいてくれよ」
「……ごめん」
答えないまま無視していると、やがて生野が立ち上がる気配がして、遠ざかって行くのがわかった。
一人になると、本当に悲しくなって涙があふれて来た。生野のやつ、余計なことを言って……。
伸のことが恋しくて、伸の心が自分だけのものにならないことが悲しくて、涙が止まらなくなり、結局、午後の授業をサボることになってしまった。
伸との付き合いを続けるためには、ちゃんと学校に通って、勉強も真面目にやらなくてはいけない。ずっとそう思って、実際にそうして来たのだが、今日はその気力がなくなってしまった。
六時間目の授業は受けずに早退しようと思い、休み時間を告げるチャイムが鳴り始めると、荷物を取りに教室に向かった。
荷物をまとめていると、予想した通り、生野がやって来た。
「帰るのか?」
有希は、鞄を手に席を立つ。
「具合が悪いのか?」
「違う」
「屋上で、ずっと泣いてたのか?」
有希は、生野をにらみつける。
「違う」
生野が、じっと有希の目を見ながら言った。
「でも、目が真っ赤だぞ」
それには答えず、有希は、足早に教室を後にした。
伸に会いたくてたまらない。でも、そういうわけにはいかない。
電車の中で有希は、カバンからスマートフォンを取り出した。アプリを開いて、伸にメッセージを打とうとする。
だが、指が動かない。こんな気持ちで、なんと打てばいいのかわからない。
しばらく画面を見ながら考えた後、ため息をつきながらアプリを閉じた。有希がメッセージを送らなければ、伸から送って来ることは滅多にない。
夜はいつも、母が用意しておいてくれる料理を温めて食べる。母は夜の仕事をしているので、有希が学校から帰って来る前に出かけ、明け方まで帰って来ない。




