162,溢れ出して止まらない涙と心が休まる暇がないことと麗衣の提案
「もう、終わりにしようと……」
「え?」
「苦しくて……」
つまり、自分で自分を傷つけようとしたと?
「だけど、包丁が怖くて、十秒も持っていられなかった」
「ユウ!」
なんということを。
「包丁は、そんなことに使うものじゃないよ! ユウが喜んでくれる料理を作るためにあるんじゃないか……」
自分でも驚いたことに、言いながら、伸の目から噴き出すように涙が溢れる。それを見た有希の頬が赤らみ、目に涙が滲む。
「駄目じゃないか。ユウ。頼むから、そんなことしないでくれよ」
伸は、有希を強く抱きしめる。
「ユウにもしものことがあったら、俺は生きて行けない……」
涙が後から後から溢れ出して止まらない。こんなに泣いたのは、覚えている限り初めてかもしれない。
腕の中で、有希がつぶやいた。
「伸くん……。ごめん、なさい」
「ユウ。頼むから、俺のそばにいてくれ。俺のために、生きてくれ……」
「あぁ……」
有希も嗚咽を漏らす。
どれくらい、二人で抱き合って泣いていただろう。背後で廊下に続くドアが開く音がしたかと思うと、麗衣の声がした。
「あなたたち、どうしたの!?」
いつの間にか、そんな時間になっていたのだ。伸は、あわてて涙をぬぐって振り返る。
「おかえりなさい」
今まで泣いていた跡は隠しようもないが。有希も、うつむいたまま両手で涙をぬぐっている。
麗衣が、呆気に取られたように言った。
「ただ事じゃなさそうね……」
そして、床に落ちていた包丁を手に取り、そっとシンクの中に置いた。伸は、何も説明することが出来なかったのだが、包丁を見て、だいたいのことは察しがついたのかもしれない。
「とりあえず、朝食の時間まで部屋で休みましょうか」
後で、有希が落ち着いているときに聞いてみると、深く考えてしたことではなく、ふと目が覚めたときに、衝動的に行動を起こしたようだった。思いがけず伸が号泣したことで、事の重大さに気づき、自分のしたことにショックを受けたらしい。
有希は言った。
「もう二度とあんなことはしないから、僕を許して」
許すとか許さないとかの問題ではなく、伸は、今まで以上に有希のことが心配でならなくなった。また衝動的におかしなことをするのではないかと思うと、片時も目が離せないのだ。
自分でもよくないと思うのだが、気持ちに余裕がなくなり、料理や家事を楽しむことも出来なくなって、心が休まる暇がない。それは有希にも、おそらく麗衣にも伝わっているらしい。
自分が家の中の雰囲気を悪くしてしまっているようで、申し訳ないと思うものの、どうすることも出来ない。
有希のことを心配しているはずが、かえって有希を不安にさせているようで、このままではいけないと思っていたのだが。
ある日、朝食の席で麗衣が言った。
「私から提案があるんだけど」
伸と有希は、麗衣の顔を見る。
「二人とも、ずっと家にこもり切りで、ちょっと煮詰まっているんじゃないかと思うのよ。率直に言って、とても心配」
「すいません……」
十分自覚している伸は、思わず謝る。
麗衣が微笑む。
「そんな、いいのよ。それでね、私も以前行ったことがあるんだけど、お友達のシゲミさんが、小此木山に素敵な山荘を持っていてね、そこを貸してくれるって言っているんだけど」
シゲミさんというのは、確かゲイバーのオーナーだと聞いたことがある。
「山の中腹にあって、とても静かで景色もいいし、そこでしばらくの間のんびり過ごしてリフレッシュするっていうのはどう? 私は休みのときだけ、たくさん食料を車に積んで遊びに行くわ」
「でも……」
有希が不安そうな顔になる。
「もちろん、ママが車で二人を送って行くわ。山の中にぽつんと建つ山荘で、最初は心細いと感じるかもしれないけど、セキュリティはしっかりしているし、慣れれば快適に過ごせるんじゃないかしら」




