161,無力感に苛まれることと階段を駆け下りることと落ちている包丁
一時に比べれば、最近は明るくなったし、痛々しいほどに痩せていた体にも、少しは肉が付いたようなのだが、何か辛いことがあったのだろうか。
有希が、とぎれとぎれに話し始めた。
「伸くんや、ママの写真を撮って……」
「うん」
伸は、辛抱強く次の言葉を待つ。
「二人とも、すごくきれいで……」
麗衣はともかく、伸はきれいではないと思うが、今は黙っておく。
有希は、悲しげにため息をついて言った。
「昔はよく、自撮りをして伸くんに送ったよね」
「そうだね」
急に話が変わったが、伸は素直に相槌を打つ。
「でも、僕はもう……」
有希は顔を歪め、目から涙を溢れさせる。言いたいことはわかった。
彼は今も、頬の傷のことをひどく気にしていて、鏡をまともに見ることすら出来ないままでいるのだ。明るく振舞ってはいても、頭の中には、常にそのことがあるに違いない。
美しく愛らしい顔に消えない傷を刻みつけられ、どんなに辛く悲しい思いをしていることだろう。白く滑らかな肌にくっきりと走る、赤みを帯びた長い傷跡。
伸は、流れる涙を、そっと指でぬぐってやる。
有希が、しゃくり上げながら言う。
「もう、嫌。大学に通って勉強して、やりたいことを探そうと思っていたのに。料理だって、伸くんに教えてもらおうと思っていたのに、包丁が怖くて、もう無理……。
絵を描くことは好きだけど、でも、あんなことがなければ、描こうなんて思いもしなかっただろうし、きっと描いていない。
こんなはずじゃなかったのに……。こんなの、嫌だ!」
「ユウ……」
かわいそうに。こんなに苦しんで。
有希の苦しみを取り除くことが出来るなら、どんなことでも喜んでする。だが、その方法がわからない。
結局、自分には何も出来ないのだ。伸は無力感に苛まれながら、泣き続ける有希を抱きしめていることしか出来なかった。
長雨が続き、空はどんよりとして暗く、家の中にも重苦しい空気が立ち込めている。あの夜以来、有希はすっかり元気をなくし、カメラにも絵にも手をつけていない。
伸はただ、有希を気遣い、そばに寄り添う。有希は弱々しく頼りなげで、心配で仕方がない。
そんなある日の夜更け、肌寒さに目を覚ますと、隣に寝ているはずの有希の姿がない。枕の横に、ぽつんとシンノスケが座っている。伸は飛び起きた。
冷たい空気を感じたのは、有希がドアを開けて出て行ったせいなのか。だが、いまだ夜の闇に怯える有希は、トイレに立つときは、伸を起こして一緒に行くのが常なのだ。
ただならぬものを感じ、伸は慌てて部屋を出る。そんなことは考えにくいが、伸を起こしても起きなかったので、仕方なく一人でトイレに行ったということも、まったくないとは言えない。
廊下に出ると、階段の電気が点いている。やはり階下に行ったのだ。
伸は階段を駆け下りる。
「ユウ! どこだ」
トイレを確かめる前に、キッチンの灯りが点いているのが目に入った。見たところ、有希の姿はないが、念のため対面式のシンクの向こう側に回り込んで、伸は愕然とした。
「ユウ!」
うずくまった有希のそばに包丁が落ちている。
「ユウ! 大丈夫か!?」
ゆっくりとこちらを向いた有希の顔は蒼白だ。オフホワイトのパジャマのどこにも血の跡はないが、伸はその体に触れ、両腕を持ち上げて確かめる。
「怪我はない?」
幸い体のどこにも、手首の内側にも傷はない。
「ユウ。いったい何があったんだ」
「あ……」
有希は、何か言おうとするように口を開いたが、言葉にならない。
「ユウ?」
有希は呆然と伸の顔を見つめる。
「ユウ。何があったのか教えてくれ。黙っていちゃわからないよ!」
思わず声を荒げると、有希がびくりと体を震わせた。
「ごめん。責めているわけじゃないんだ。ユウのことが心配なんだよ」
有希の両腕をさすりながら言うと、ようやく有希は話し始めた。




