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143/186

143,こぼれ落ちた涙に胸を突かれることと突然の訪問者とコーヒーとクッキー

 季節は変わった。今年の梅雨は長雨が続き、いつになく気温も低い。

 

 天候が影響しているのか、有希は体調が思わしくなく、精神的にも不安定で、臥せっていることが多い。髪が伸び、オフホワイトのパジャマを着て眠る姿は、やつれてもなお、行彦にそっくりだ。

 

 寝顔を見つめていると、眉根を寄せた有希の閉じた目から涙がこぼれ落ち、伸は胸を突かれる。その涙を指でそっとぬぐっていると、部屋に近づいて来る足音が聞こえた。

 

 遠慮がちにドアをノックする音。麗衣だ。

 

「ちょっといい?」


 何かあったのだろうか。伸は、急いで立って行ってドアを開ける。

 

 身支度を整え、出かける用意をしていたらしい麗衣が、困惑した様子で言った。

 

「有希は?」


「眠っています」


「ちょっといいかしら……」


「はい」


 伸は廊下に出て、静かにドアを閉める。

 

 麗衣が、声をひそめて言う。

 

「有希に会いたいっていう子が来ているのよ」


「えっ?」


「高校のときの同級生だって言うんだけど……」


 伸は、ふと思いついて言った。

 

「それって、もしかして生野っていう子ですか?」


 麗衣が目を見開く。

 

「そうよ。あなた知っているの?」


「はい。以前、パークレストランに来てくれたことがあって」


 パークレストランとは、以前、伸が働いていた、今は閉園してしまったフォレストランドというテーマパークの中にあった店だ。ただし、生野のことは伸の記憶からは抜け落ちていて、そのときのことは、すべて後から有希に聞いたのだが。

 

 麗衣は言う。

 

「ずいぶん思いつめた様子なんだけど、有希に会わせていいものかどうか……」


 確かに、以前の有希だったならば、彼との再会を喜んだかもしれないが、今はどうだろう。

 

「あの、彼と話をさせてもらってもいいですか?」


 麗衣が、気遣うように伸の顔を見た。

 

「私はいいけど、あなたは大丈夫なの?」


「えぇ。生野くんは、俺たちの関係を知っています」


 麗衣の心配は、多分そういうことだろう。


「そうなの。私はそろそろ出かけなくちゃいけないんだけど……」


「大丈夫です。生野くんは話のわかる子ですし、ちゃんと説明しますから、どうぞお出かけになってください」


 麗衣が、ほっとしたように言った。

 

「それじゃ、お願いするわ。有希のこともよろしくね」


「はい」



 階段を下りて行くと、伸を見た生野が、驚いたように立ち上がった。有希から聞いた通り、長身で眼鏡をかけている。

 

「久しぶりだね」


 本当は、伸にとっては初対面なのだが、この場にふさわしい言葉としてそう言っておく。生野が、眼鏡の奥の目をしばたたきながら言った。

 

「安藤さん、どうしてここに?」


 伸は苦笑する。

 

「いろいろあって、今はこの家で暮らしているんだ。まぁ座って」


 腰を下ろしながら、生野が言う。

 

「あの、西原は……」


「今は眠っているんだ」


「俺、最近になって事件のことを知って」


 勢い込む生野を押しとどめるように、伸は言った。

 

「ちょっと待って。ちゃんと説明するけど、その前にコーヒーを淹れて来るから」


「はぁ……」


 不満そうな顔をしながらも、彼はうなずいた。

 

 

 コーヒーに、先日作ったクッキーを添えて出しながら尋ねる。

 

「生野くんは、今は?」


「あぁ。俺、高三の途中で名古屋に引っ越したんです。それで、今はそこから地元の大学に通っています」


 両親の経営する会社が倒産したため、両親の下を離れて伯母の家で暮らしていると聞いた。

 

「そう。あぁ、コーヒーどうぞ。よかったらクッキーも」


「いただきます」


 生野は、コーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを入れながら言う。

 

「このクッキー、もしかして安藤さんの手作りですか?」


「そう」


「すげぇ。料理だけじゃなくてスイーツも上手なんですね」


「いや、そんな。有希のリクエストでね」


 有希の名前を出した途端、生野の表情が引き締まる。

 

「西原は大丈夫なんですか?」


「いや。大丈夫というか……」

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