143,こぼれ落ちた涙に胸を突かれることと突然の訪問者とコーヒーとクッキー
季節は変わった。今年の梅雨は長雨が続き、いつになく気温も低い。
天候が影響しているのか、有希は体調が思わしくなく、精神的にも不安定で、臥せっていることが多い。髪が伸び、オフホワイトのパジャマを着て眠る姿は、やつれてもなお、行彦にそっくりだ。
寝顔を見つめていると、眉根を寄せた有希の閉じた目から涙がこぼれ落ち、伸は胸を突かれる。その涙を指でそっとぬぐっていると、部屋に近づいて来る足音が聞こえた。
遠慮がちにドアをノックする音。麗衣だ。
「ちょっといい?」
何かあったのだろうか。伸は、急いで立って行ってドアを開ける。
身支度を整え、出かける用意をしていたらしい麗衣が、困惑した様子で言った。
「有希は?」
「眠っています」
「ちょっといいかしら……」
「はい」
伸は廊下に出て、静かにドアを閉める。
麗衣が、声をひそめて言う。
「有希に会いたいっていう子が来ているのよ」
「えっ?」
「高校のときの同級生だって言うんだけど……」
伸は、ふと思いついて言った。
「それって、もしかして生野っていう子ですか?」
麗衣が目を見開く。
「そうよ。あなた知っているの?」
「はい。以前、パークレストランに来てくれたことがあって」
パークレストランとは、以前、伸が働いていた、今は閉園してしまったフォレストランドというテーマパークの中にあった店だ。ただし、生野のことは伸の記憶からは抜け落ちていて、そのときのことは、すべて後から有希に聞いたのだが。
麗衣は言う。
「ずいぶん思いつめた様子なんだけど、有希に会わせていいものかどうか……」
確かに、以前の有希だったならば、彼との再会を喜んだかもしれないが、今はどうだろう。
「あの、彼と話をさせてもらってもいいですか?」
麗衣が、気遣うように伸の顔を見た。
「私はいいけど、あなたは大丈夫なの?」
「えぇ。生野くんは、俺たちの関係を知っています」
麗衣の心配は、多分そういうことだろう。
「そうなの。私はそろそろ出かけなくちゃいけないんだけど……」
「大丈夫です。生野くんは話のわかる子ですし、ちゃんと説明しますから、どうぞお出かけになってください」
麗衣が、ほっとしたように言った。
「それじゃ、お願いするわ。有希のこともよろしくね」
「はい」
階段を下りて行くと、伸を見た生野が、驚いたように立ち上がった。有希から聞いた通り、長身で眼鏡をかけている。
「久しぶりだね」
本当は、伸にとっては初対面なのだが、この場にふさわしい言葉としてそう言っておく。生野が、眼鏡の奥の目をしばたたきながら言った。
「安藤さん、どうしてここに?」
伸は苦笑する。
「いろいろあって、今はこの家で暮らしているんだ。まぁ座って」
腰を下ろしながら、生野が言う。
「あの、西原は……」
「今は眠っているんだ」
「俺、最近になって事件のことを知って」
勢い込む生野を押しとどめるように、伸は言った。
「ちょっと待って。ちゃんと説明するけど、その前にコーヒーを淹れて来るから」
「はぁ……」
不満そうな顔をしながらも、彼はうなずいた。
コーヒーに、先日作ったクッキーを添えて出しながら尋ねる。
「生野くんは、今は?」
「あぁ。俺、高三の途中で名古屋に引っ越したんです。それで、今はそこから地元の大学に通っています」
両親の経営する会社が倒産したため、両親の下を離れて伯母の家で暮らしていると聞いた。
「そう。あぁ、コーヒーどうぞ。よかったらクッキーも」
「いただきます」
生野は、コーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを入れながら言う。
「このクッキー、もしかして安藤さんの手作りですか?」
「そう」
「すげぇ。料理だけじゃなくてスイーツも上手なんですね」
「いや、そんな。有希のリクエストでね」
有希の名前を出した途端、生野の表情が引き締まる。
「西原は大丈夫なんですか?」
「いや。大丈夫というか……」




