138,自分に何が出来るか考えることと料理雑誌とすっかり忘れていたこと
有希の体が、がくがくと震え出した。サイレンを聞いて、事件のときのことがフラッシュバックしているのかもしれない。
伸は、有希の背中を優しくさすってやる。痩せた背中は、骨が浮き出ている。
「ユウ。大丈夫だよ」
苦しげな息遣い。
「ユウ。心配ない。ここは安全だし、俺がユウを守るから」
有希のことを、あらゆる苦しみや危険から守りたいと思うし、彼のためならどんなことでもするつもりでいる。
出来ることなら、すべてを肩代わりしてやりたいくらいだが、もちろん、それが不可能なこともわかっている。
伸は思う。有希の傷ついた心を癒すために、自分に何が出来るのだろう……。
翌朝、食事の用意をしているところに、麗衣が下りて来た。麗衣は毎日、明け方近くに帰って来るのだが、一緒に朝食を取るのは、有希が小さい頃からの習慣だという。
あの後、有希は長い間泣き続け、今朝は具合が悪そうだ。普通ならば、そのままベッドで寝ているところだろうが、今もまだ一人でいることが出来ない有希は、パジャマのままソファで体を丸めている。
麗衣が、そんな有希に目をやってから、問いかけるように伸の顔を見た。
「昨夜、近くで救急車とパトカーのサイレンが聞こえたんです」
「そうなの」
それだけで、麗衣は事情を察したようだ。静かにソファに近づいて行き、有希に何か話しかけている。
そして、再びトマトを切っている伸のそばに戻って来て言った。
「あなたのフレンチトーストなら食べられるかもしれないって」
「ちょうどこれから焼こうとしていたところです」
卵液に浸した、スライスしたバゲットの並んだバットを見せると、麗衣は微笑んだ。
夜、あまりよく眠れない有希は、昼間うとうとしていることが多い。昼下がりの今も、ベッドで横になっている。
伸は、その隣で、上半身をヘッドレストに預け、プロ向けの料理雑誌を眺めている。この機会にいろいろ勉強しようと思っているのだ。
最新の調理器具の広告の間に、トレンドの料理の美しい写真の数々。それらを見ていて、ふと思いついたことがあった。
目を覚ました有希が、身じろぎをして、伸のほうに体を向ける。伸は、その柔らかい髪をそっと撫でる。
やがて、有希は伸びをして、あどけない顔で伸を見上げた。伸は微笑む。
「よく眠れた?」
「うん。どうしてかな。昼間だと眠れる」
夜の闇は、灯りを点けていてもなお恐れや不安を誘う。明るくのどかな昼下がりは、気持ちもリラックスするし、夜の不眠で疲れた体が休みたがっているのだろう。
「寝たいだけ寝ていいよ」
「うん……」
有希が、伸の腕に触れながら言った。
「それ何?」
「あぁ。料理の雑誌だよ」
「へぇ」
起き上がって、有希は雑誌をのぞき込む。伸は、雑誌を有希のほうに向けながら聞く。
「そう言えばユウ、俺の料理の写真を撮っていたよね」
以前は、伸のマンションに来たときに、いつもそうしていたのだ。
「うん……」
有希は、雑誌に目を落としたまま答える。伸は言った。
「写真、また撮ったらどうかな」
「え?」
有希が顔を上げた。
「ここでも毎日料理をしているから、またユウが撮ってくれたらうれしいな。そうしてくれれば励みになるし、もっとおいしくきれいに作ろうっていう気にもなる。
この家にある食器はどれも素敵だから、今までより、もっといい写真が撮れるんじゃないかな」
「あ……」
「もちろん、気が向いたらでいいよ」
有希が、はっとしたように言った。
「すっかり忘れていた。伸くんの家に行って、手料理を食べるのはもちろんだけど、毎回、写真を撮るのも、すごく楽しみにしていたのに……」
そして、伸の顔を見ながら言う。
「そうだね。また撮るよ。撮りためた写真、久しぶりに見返してみよう。しばらくスマホを開いていないから、充電しないと駄目かな……」
「俺も一緒に見たいな」
「うん」
にっこり笑った有希の顔がかわいくて、伸もつられて笑った。




