133,途方に暮れることとマンションに寄ることとなかなか車から降りようとしない有希
「伸くんも行ってくれるの?」
「もちろん。あ……でも」
伸は、麗衣に向かって言った。
「一度、部屋に着替えに戻りたいんですが」
「それなら、病院に行く前に、あなたのマンションに寄りましょう」
「すいません」
「いいのよ。散々お世話になっているんですもの」
伸は、首を横に振る。そして、再び有希に話しかける。
「それでいい?」
こくりとうなずいてから、有希が言った。
「マンションに行ったら、着替えをたくさん持って、病院の後、また一緒にここに戻って来て」
「え……」
麗衣がたしなめる。
「安藤さんにだって都合があるのよ。お店にだって行かなくちゃいけないし、ずっとあなたのそばにばかりいるわけにはいかないわ」
有希が、涙を浮かべて伸を見る。
「都合って何? 僕のそばにいてくれないの?
伸くんがいないと、僕は……。伸くんが行っちゃうなら、病院には行かない!」
両目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。麗衣が、困った顔で言う。
「そんな駄々っ子みたいなことを言って、安藤さんを困らせないの」
「伸くん、困ってるの? 僕のこと、嫌いになった?」
「いや……」
伸は途方に暮れる。有希を嫌いになりはしないが、正直なところ困っている。
有希のためならば、なんでもしたいと思うし、ずっとそばにいることも苦にならない。ただ、伸は雇われている身であるし、働かなければ生活して行けない。
「伸くんに嫌われたら、もう、生きて行けない……」
有希の弱々しいつぶやきを聞いて、麗衣が大きなため息をついて言った。
「鈴木さんに電話してみるわ。こんな早い時間に申し訳ないけど」
麗衣は、今週いっぱい、伸が出勤しなくてもいいように手配した。最初、伸は固辞したのだが、有希のために休んでもらうのだから、その間の給料も払うと言う。
「あなたの料理の腕は、アルバイトで簡単に補えるものじゃないって言われたわ。『大変だけど、息子さんのためじゃ仕方ないですね』って」
鈴木の言葉を伝え聞き、自分を認めてもらえていることがわかって、うれしかった。期待に応えられるよう、来週からは、また頑張ろうと思う。
だが、今は有希のことが一番だ。
「まだ時間はあるから、ゆっくりで大丈夫よ」
マンションの駐車場に車を入れて、麗衣が言った。オフホワイトのゆったりしたシャツを着て、後部座席に伸と並んで座った有希は、ずっと青い顔をしてうつむいている。
伸は、急いでシートベルトを外す。
「それじゃ、ちょっと行って来ます」
だが、ドアを開けて降りようとすると、有希が、伸のシャツの裾を掴んだ。振り返ると、すがるような目で見つめている。
伸が、そばを離れるのが不安なのだろうか。
「ユウも行く?」
そう聞くと、有希は、シャツをつかんだままうなずいた。
伸は、クローゼットから大ぶりのバッグを取り出す。
「すぐに用意するから、ちょっと待っていて」
当面の着替えをバッグに入れて、自身も着替えなくてはいけない。冷蔵庫の中の食材も気になるが、今は片付けている暇はない。
そう思いながら、シャツやズボンを適当に選んでバッグに詰め込んでいく。ふと見ると、有希が、ペアの部屋着の一枚を手に取って、じっと見ている。
「どうかした? それも持って行く?」
麗衣の前で二人で着るのは憚られるが、部屋の中だけならばいいだろう。そう思ったのだが、有希がぽつりとつぶやいた。
「また、ここに来られるのかな……」
「……え?」
意味がわからず、伸は聞き返す。
「何? 来られるだろ?」
だが、有希は何も答えず、部屋着を元あった場所に戻した。
病院でも、有希は、なかなか車から降りようとしなかった。
「ユウ。怖いの?」
人のいる場所に出て行くのが怖いのか、あるいは診察を受けることが怖いのだろうか。運転席から降りた麗衣が、有希の横のドアを開けて言う。
「大丈夫よ。ママも安藤さんもついているから」
有希はうつむいたまま、のろのろとシートベルトを外した。




