129,こぼれ落ちる涙の雫と伸が感心したことと行彦の部屋を思い出すこと
有希の体を支えながらソファまで連れて行って寝かせると、麗衣がその体に、そばに畳んで置いてあったブランケットを広げてかけた。
「伸くん……」
うっすらと目を開けた有希が、こちらに手を差し伸べる。麗衣の前で、少し気まずかったが、さっきからもう、散々大胆なことを口走ったり、有希を抱きしめたりしていたのだと思い、ソファの前にしゃがみ込みながら、その手を握りしめた。
伸の手を胸に引き寄せながら、有希がつぶやいた。
「怖いよ……」
「え?」
「眠るたび、あいつが出て来て、僕のことを……」
目じりから、涙の雫がこぼれ落ちる。
「ユウ。大丈夫だよ。あいつはもう捕まったから」
「だけど、あいつが、ナイフで……!」
再び有希は、激しく泣き始めた。麗衣が、静かに語りかける。
「ママも安藤さんもついているから大丈夫よ。もう決してあなたを危険な目には遭わせないわ」
「ママ……」
それから麗衣は、優しく微笑みながら言った。
「ねぇ有希。安藤さん、まだ食事の途中なのよ。コーヒーが冷めちゃうわ」
「あ……」
有希が、涙に濡れた目で伸を見上げた。伸はあわてて言う。
「いや、俺なら大丈夫だよ」
「伸くん、ごめん」
「いいって」
横から麗衣が言う。
「有希も貧血が治まったら、お茶かコーヒー飲まない? 温かいものを飲むと気分が落ち着くわよ」
「……うん」
伸は感心した。さすがは母親だ。
激しく泣く有希を前に、伸はなすすべもなかったが、麗衣が一言二言話しかけた途端、涙が止まり、有希は、徐々に落ち着きを取り戻した。
それどころか、起きて飲み物を飲むという。ダイニングテーブルに戻りながら、麗衣がさり気なく言った。
「ソレイユのショコラクロワッサンがあるのよ。有希、好きでしょう?」
驚いたことに、その後、有希は、紅茶とともに出されたクロワッサンを完食したのだった。
その日は、そのまま夕方まで西原家にいた。ずっと有希に付き添っていた麗衣には休んでもらい、有希の部屋で過ごす。
改めて見ると、日当たりがよく明るい部屋は広々として、ベッドは、華奢な有希には不釣り合いな大きさだ。雰囲気はまったく違うものの、伸は密かに、行彦の部屋を思い出す。
すべては、高校生だったあの日、肝試しに行かされた洋館で、行彦に出会ったときから始まったのだ。まさか、こんな未来が待っているとは思いもしなかった……。
有希はベッドに体を丸めて横たわり、伸は、そのかたわらに腰を下ろしている。麗衣がいる家の中で、有希と同じベッドの上にいるのはなんとも気まずいのだが、有希がそうしてほしいと言ったのだ。
「伸くん」
「うん?」
「昨夜は僕のために、お仕事を抜けて来てくれたの?」
「うん」
「ごめんね」
横を見ると、有希が、あどけない顔でじっと見上げている。
「いいよ」
「せっかく来てくれたのに、寝ちゃって……」
「いいよ。俺も本当は、仕事どころじゃなかったし」
「伸くん……」
伸は微笑む。
「ユウが、もう付き合えないって言ったときはショックだった」
有希が、切なげな表情で、伸のシャツを掴む。
「だってそれは……」
「もちろん、本心じゃないってわかっていたさ」
「伸くん……」
有希の目に涙が滲んだので、伸はあわてる。
「あぁ、ごめん。泣かないで」
有希は、子供っぽい仕草で目をこすって言った。
「今日もお仕事だよね」
「うん」
「今日は、ちゃんとお店に行かなくちゃだよね」
「そうだね」
本当は、ずっと有希のそばにいたいが、そういうわけにはいかない。
「僕が嫌だって言っても、きっとママが許してくれないね。ママも、僕のためにお仕事休んでるし」
伸は、有希の髪を撫でる。
「そうだね。でも、麗衣さんは、とってもいいお母さんだね」
「うん。ママのこと、大好き。あっ、でも」
有希があわてたように言い添えた。
「一番好きなのは伸くんだよ。ママは二番目」
伸は噴き出す。
「気を遣わなくていいよ。お母さんとは比べられないだろ」




