128,タクシーで駆けつけることと朝日に輝く芝生の庭とすすり泣く有希を抱きしめること
「安藤」
その日の夜、厨房でオードブルの仕上げをしていると、出入り口から店長の鈴木に声をかけられた。伸は、手を止めて振り返る。
「はい」
「今、店に社長から電話があって、安藤に至急電話してほしいって。ここはいいから電話して来い」
社長とは、麗衣のことだ。
「わかりました」
有希に何かあったのだろうか。伸は急いで控室に戻り、麗衣に電話をかける。
「安藤です」
「仕事中にごめんなさいね」
「いえ。どうかしましたか?」
「それが……」
大きくため息をつく音がしてから、麗衣は話し始めた。
「有希はとても不安定で、今は、どうしてもあなたに会いたいって大泣きして手がつけられないの。こんな時間に本当に申し訳ないんだけど」
伸は、スマートフォンを握りしめる。
「今日は休日明けで、お客さんも少ないですし、俺が抜けてもなんとかなると思います。店長に断って、すぐにそちらに向かいます」
すると、麗衣が言った。
「ごめんなさいね。鈴木さんに変わってくれる? 私から話すわ」
伸と麗衣の、ひいては有希との関係は、鈴木も承知している。麗衣の下で働く者たちはみな、そういうことに理解があるのだ。
この業界では、めずらしいことではないせいかもしれないが、麗衣の経営手腕や求心力とも無関係ではないのだろう。
家までタクシーで駆けつけたのだが、結局、その日は有希には会えなかった。伸が到着する少し前に、泣き疲れて眠ってしまったという。
「呼びつけておいて、本当にごめんなさいね」
リビングのソファにかけた伸に向かって、かすかに疲れの滲む表情で、麗衣が申し訳なさそうに言った。
「いえ……」
「今、お茶を淹れるわね」
「どうぞおかまいなく」
伸が、あわてて首を横に振ると、麗衣は微笑んだ。
「私が飲みたいのよ。それから、後で部屋を用意するから、今日はこのまま休んで行ってちょうだい」
「そんな……」
だが、戸惑う伸に、麗衣が言った。
「有希が目を覚ましたときに、あなたにいてほしいし」
その後、伸はゲストルームに通された。そんなものがあるだけでもすごいと思ったが、八畳ほどの部屋には、シャワールームとトイレまで完備されていた。
何かあったら、いつでも出られるようにと思いながらベッドに横たわっていたのだが、いつの間にか眠り、気がつくと朝になっていた。
カーテンを開けると、窓の向こうに朝日に輝く芝生の庭が広がっていた。
麗衣と向かい合って遅めの朝食を取っていると、青い顔をした有希がふらりとやって来た。伸の姿を認めるなり、驚いた顔をして、頬を手で隠す。一瞬見えた頬は、絆創膏の上からでも、腫れているのがわかった。
「おはよう。あなたも座りなさい」
麗衣が優しく声をかけたが、有希は踵を返して立ち去ろうとする。
「待って」
伸は急いで立ち上がり、有希を追った。
「ユウ!」
階段の下で追いつき、腕を掴んだ。有希は振り払おうとするが、伸は、その手を引き寄せ、有希の体をこちらに向ける。
「昨夜、麗衣さんに電話をもらって会いに来たんだよ」
有希は、頬を押さえてうつむいたまま、何も答えない。
「ユウのために何かしたい」
すると有希が、小さな声で何かつぶやいた。
「何?」
「……だったら、放っておいて」
「ユウ!」
「こんな醜い姿、伸くんに見られたくない」
「何言ってるんだ。ユウは醜くなんかないよ」
「だって……」
有希はすすり泣き始めた。
伸は、有希を抱きしめる。
「傷なんて関係ない。そんなものでユウの美しさは損なわれたりしないよ。俺は傷なんて、ちっとも気にならない」
「あぁ……伸くん!」
有希は激しく泣き始めた。
「ユウ」
伸は、有希の体に回した腕に力を込める。また過呼吸発作を起こすのではないかと気が気でない。
やがて、ふと泣き声が止んだかと思うと、有希の体から力が抜けた。
「ユウ、大丈夫?」
「……くらくらする」
そばに来て見守っていた麗衣が言った。
「貧血かしらね。ソファで横になるといいわ」




