116,「ユウ」と呼んでほしいこととうれしいのと切ないのと手早く作ったチャーハン
有希は、上目遣いに見ながら言う。
「それで、伸くんはどう思ったの?」
「とても不思議だと思ったよ。こんなに仲良くしていたのに、どうして、君のことだけすっかり忘れてしまったんだろうって。だけど」
有希は、伸の話を遮る。
「ごめん、伸くん。話の途中で悪いけど、僕のこと、『ユウ』って呼んでくれないかな」
仕方ないことだとわかっているが、他人行儀に「君」と呼ばれるのは切ない。
「あぁ、そうだね。えぇと、そう。記憶が失くなってしまったのはとても不思議だけど、ユウに聞いて、教えてもらえばいいかなって。ユウがそう言ってくれたから」
「伸くん……」
有希は目元をぬぐった。うれしいのに涙が出てしまう。伸が、心配そうな顔をして言った。
「大丈夫?」
「うん。僕、泣き虫なんだ。伸くんが僕のことを忘れちゃったから、もう付き合えないって言われたらどうしようって、すごく心配だった。
前に一度、そう言われたから……」
「そんなひどいことを?」
「そう。悲しかった。でもそれは、伸くんの本心じゃなかったんだよ。僕のためを思って……」
当時のことを思い出し、再び涙が込み上げる。有希は、しゃくり上げながら言った。
「何から話せばいいのかわからないから、最初から順番にでいい?」
「もちろん。でも、涙が収まってからでいいよ。ゆっくりでいいから」
有希が泣き続けていると、伸は立って行って、持って来たタオルを手渡してくれた。あぁ、この香り。やっぱり伸くんは優しい。僕のこと、覚えていないのに……。
うれしいのと切ないのとで、余計に涙が溢れる。
ようやく気持ちが落ち着き、有希は口を開いた。
「初めて出会ったときのことから話すよ。でも、僕はそのときのことは忘れちゃったから、これは後から伸くんに聞いた話だよ」
伸は黙ってうなずく。どことなく腑に落ちないような表情をしているのは、多分、有希が記憶を失った理由がわからないせいなのだろう。
大切な記憶が、ある日突然失われてしまうことは、とても悲しい。伸は、いろいろ丁寧に話してくれたが、もしも少しでも有希に話していないことがあったとしたら、それはもう永遠に知ることが出来ないのだ。
だから、自分が知っていることは、一つ残らず伸に伝えよう。そう思いながら話をした。
「……それで伸くんは、僕のママを病室に案内した後、何も言わずに帰っちゃったんだ」
有希が記憶を失ったところまで話し終えたときには、ずいぶん時間が経ち、すっかり日が暮れていた。伸が言う。
「話の途中だけど、お腹が空かない?」
有希は、首を横に振る。いろいろな感情が入り乱れ、胸が苦しくて食欲などない。
だが、伸は微笑みながら言った。
「でも、食べないと体に毒だから、何か作るよ。ユウも疲れただろう? 一休みしよう」
有希はこくりとうなずいた。
行彦としての記憶を有希が語ったことも、伸から聞いた、伸が高校生のときに行彦と愛し合ったことや、体調を崩して入院したことも話した。それらは伸自身も覚えていることだから、多分、有希が言っていることが嘘ではないとわかってくれたことだろう。
伸が行彦と愛し合ったこと自体、普通ではあり得ないことなのだから、有希が記憶を失ったことも、さらに今、伸が記憶を失ったことも、それなりに納得してくれたのではないかと思う。
そして、恥ずかしかったけれど、出会ったその日に、この部屋で体を重ねたことも話した。もちろんそれは、伸が有希に話してくれたことであって、自分が覚えていないことが、とても寂しい。
「こんなものしか出来なくて」
そう言いながら、伸が冷たいお茶とともにテーブルに置いたのは、手早く作ったチャーハンだ。有希は、首を横に振る。
「うぅん。伸くんの料理、大好きだよ。これからも、またいろいろ作ってくれる?」
「うん」
「……よかった」




