105,ビーフシチューと「潤子さん」と顔が熱くなること
伸によれば、始めた当時は、世間はシングルマザーに厳しく、あらぬ噂を立てられたりしたこともあったそうだが、今は、主に地元の主婦たちの憩いの場になっているらしい。
それはきっと、料理の味だけでなく、伸の母の優しく穏やかな人柄によるものなのだろう。そしてそれらは、伸にも受け継がれていると有希は思う。
「お待たせしました」
カウンターの奥からトレーを持って出て来た伸の母が、目の前に料理を並べてくれた。深皿にたっぷり入った、湯気を立てるビーフシチューとライスとサラダ、それに、セットメニューの中から有希が選んだアイスティー。
「いい匂い!」
有希は、ビーフシチューの香りを吸い込む。
「僕、いつもは少食なほうなんですけど、いつかのオムカレーセットも、すごくおいしくて、ぺろりと食べちゃいました。これもおいしそう」
「お口に合うといいけど」
「いただきます」
さっそくスプーンでビーフシチューを掬って口に運ぶと、濃厚で豊かな味わいが広がった。
「おいしい!」
「よかった」
伸の母が、ほっとしたように微笑んだ。
「伸くんが作ったビーフシチューも……」
またも余計なことを言ったような気がして、スプーンを持つ手とともに、言葉も途中で止まった。今さらという気もするが、有希が日常的に伸の手料理を食べていることを知ったら、伸の母はどう思うだろう。
だが、遅かった。
「伸が作ったビーフシチュー、食べたの?」
そう尋ねられ、話を続けざるを得なくなった。自分は本当に軽率だと、心の中で歯噛みする。
「伸くんは、お母さんが作ったビーフシチューが一番好きだって言っていて、時間をかけて丁寧に作って……。すごくおいしかったし、その味が、この、お母さんのビーフシチューと同じだなって思って……」
なるべく余計なことは言わないように、気をつけながら話したつもりだ。伸のビーフシチューは、もう何度も食べているのだが、その辺りは、ぼかして。
なんでも思ったことを、すぐに口に出す癖を改めなくてはいけないと自分に言い聞かせながら。
だが、すべては杞憂だったようだ。伸の母は、楽しげに言った。
「そう。あの子、昔からこれが好きなのよ。誕生日もクリスマスも、何が食べたい? て聞くと、必ずビーフシチューがいいって。
私も一応料理人だから、ほかにもレパートリーはたくさんあるんだけれど」
それから、有希に目を向けて言った。
「冷めないうちに召し上がって」
「……はい」
どうやら伸の母は、本当に自分のことを受け入れてくれたらしい。有希は、少し安心して、ビーフシチューを食べながら、カウンターの中に戻った彼女に尋ねる。
「あの。お母さんのこと、なんて呼んだらいいですか?」
伸の母ではあるが、自分の母ではないので、お母さんと呼ぶのはおかしいし、ずうずうしいような気もする。伸の母は、首を傾げる。
「そうねぇ。別になんでもいいんだけれど……」
「下の名前、なんていうんですか?」
「あぁ、潤子よ」
「潤子さん……」
有希は、思い切って言った。
「じゃあ、潤子さんって呼んでもいいですか? でも、ちょっと生意気かな……」
彼女は、ふふっと笑った。
「いいわよ。なんだか照れくさいけど。名前で呼ばれるなんて、何年ぶり、いいえ、何十年ぶりかしら。
有希くんって面白いわね」
「……そうですか?」
そう言えば、以前、生野にも、そんなふうに言われたことがあったが。
「自分では、よくわからないですけど」
潤子は、まだにこにこしている。
「そういうものかもしれないわね。でも、そういうところ、あなたの大きな魅力だと思うわよ」
「え……」
なんだか恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
「思い立ったら、すぐに行動に移さないと気がすまないし、考える前に、すぐに口に出しちゃって、お母さん、じゃなくて、潤子さんにも、会うたびに余計なことを言っちゃって、そういうの、直さなくちゃって思ってるんですけど」




