2「変わる日常、変わらない日常」
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「お疲れさま、空」
「ああ、お疲れ様」
閉店作業を終え、施錠を確かめた俺と莉音は店の前で挨拶を交わす。
時刻は21時30分頃。大通りから外れた店の周りには人通りも少なく、住宅街の道を街灯が照らしている。
「……髪、上げたままにすればよかった、かも」
手のひらで首元をパタパタとあおぐ莉音。
夏至も近づいてきた6月の夜。今日は一段と蒸し暑い。
莉音はまとめていた髪を下ろしていた。生ぬるい風が吹くたび、サラサラと揺れている。
艶やかな淡い金色は、薄暗い視界の中でもひときわ目を引いた。
服も制服に着替えている。どこにでもいる女子高生のはずなのに、莉音がいる空間だけ別世界のようだ。
やっぱり、俺とは住む世界が違ってる。
そんな姿を横目で見ながら、俺はカバンを肩にかけ直す。
「今日、悪かった。迷惑かけて」
注文を聞いて、飲み物を作って運んで、食器を下げる。自分では普段通りに働いていたつもりだった。
「困った時は、お互い様」
「そうかもしれないけど……」
洗い物をしているとき、教室での出来事が頭をよぎって手が止まった。莉音に声をかけられてハッとする。
それはそれで頭を撫でられたことを思い出して、莉音の顔を見ることが出来なかった。
今、辺りが薄暗くて本当によかったと思う。
「空は……私が頼ったら、迷惑?」
「いや、そんなことない——」
「私も、そんなことない。助け合い、だいじ」
そう言い切るが、今日の仕事の八割は莉音がやっていたと思う。これで同じ給料をもらうのは少し、気が引ける。
「仕事だけじゃなくて……さっきも、ありがとう。裏でその……慰めてくれただろ」
俺が逃げてしまって、ちゃんとしたお礼を言っていなかった。
びっくりしたし、今も思い出すだけで心臓が跳ねる。けれど気持ちが少し楽になったのも事実だった。感謝を伝えるのが筋だろう。
「なんか、俺ばっかり世話になってる気がして」
「ううん。私、助けてもらったから。おあいこ」
「……?」
バイトに入ったばかりの頃のことだろうか。注文の取り方とか、会計とか、調理とか、確かに教えたけど。
「大したことしてないだろ」
先に働いていた俺がやるのは当たり前のことだ。
俺の言葉に莉音はなにも答えず、ただ小さく首を振った。
代わりにと、柔らかい声音で尋ねてきた。
「……まだ、しんどい?」
「え? ああ、いつまでも引きずってられないし、切り替えないとな。楽になったよ」
正直、胃の奥はまだキリキリと痛む。けれど、心配してくれた莉音にこれ以上情けない顔を見せるのもどうかと思った。
俺はめいっぱい口角を上げて、笑ってみせる。
莉音の探るような雰囲気が気まずい……。
そのとき、路地の向こうを白いヘルメットを被った警察官が自転車で静かに通り過ぎていった。
少ししたら、22時を回るだろう。制服姿の俺たちが歩くには、いろいろ面倒な時間帯だ。
これ幸いと、俺は話を変えた。
「じゃ、じゃあ、時間も時間だし帰るか。俺こっちだから——」
「あっ」
踵を返し歩き出そうとすると、莉音が小さく声を上げた。
俺は足を止め、莉音を見やる。
「空……あの、付き合ってた人って、どんな人……なんでもない。しっかり寝て。メンタルと睡眠は密接な関係がある、から」
「わ、わかった」
何かと思えば、睡眠の大事さについてだった。
「あの……えっと……あの、それで……これ」
言い淀む莉音がカバンから取り出したのは、透明な袋だった。
受け取った袋を街灯に照らしてみる。中には薄い青や緑、黄色とカラフルな色。
「琥珀糖?」
外側のシャリシャリ感と、中の柔らかさのコントラスト。涼やかな見た目も独特の食感も相まって、俺の一番お気に入りの和菓子だった。
店で出している四角いものとは違って、半透明の結晶は星の形をしていた。夜空からこぼれ落ちた星屑みたいだ。
「あ、あげる……お店で作ったやつ、余った、から……糖分、だいじ」
「いいのか? ありが——」
「ばいばい」
礼を言おうとしたときには、莉音はくるりと背を向けていた。
走り出した莉音の背中が、どんどん遠ざかっていく。
「——とう」
取り残された俺の声が、誰もいない夜空に溶けていった。
◇ ◇ ◇
『弾木クリニック』
そう書かれた看板の横を通り過ぎ、裏手の玄関に回る。
「ただいま」
靴を脱ぎ、リビングの扉を開けるとキッチンで母さんが顔を上げた。
「おかえり、空。ご飯は?」
「いい、食欲ない」
「そ。冷蔵庫いれておくから、食べたくなったら自分で温めて」
冷蔵庫を閉じた母さんは大きくあくびをしながら、
「私、明日早いからもう寝るから。おやすみ」
「おやすみ、母さん」
リビングから出ていった。
テーブルでは兄さんと父さんが晩酌をしながら、大学の話をしていた。
臨床実習がどうとか、進級試験がどうとか。俺にはさっぱりな専門用語ばかりだが、兄さんは楽しそうに笑っている。
父さんは開業医。母さんは税理士。二人とも忙しくて、俺が小さい頃は母方の祖母が来てくれる事も多かった。
兄さんは5つ上の22歳。現在医学部に通っていて将来、父さんのクリニックを継ぐのだろう。
「おかえり、空。遅かったな」
「ただいま兄さん。シフト入っていたから」
「アルバイトの方は順調か? 高校生は遊ぶ金のやりくりたいへんだよなー」
ケラケラと笑う兄さん。
『遊ぶ金は自分で稼げ』が父さんの方針。だから、彩沙と付き合い始めたとき、バイトを始めた。
もっとも、貰えるとしても、『父さん。彼女とデートするから金をくれ』とは、口が裂けても言いたくない。
その彩沙にも今日、捨てられたわけだが。
「まあまあ……。オーナーは優しいし、お茶の点て方も教えてくれるから」
「へー、いいじゃん。今度連れてってくれよ」
「……機会があれば」
兄さんは気さくで、面倒見もいい。俺の高校受験のときは自分だって忙しいだろうに勉強を見てくれた。
嫌味の一つでも言ってくれれば、俺だって文句の一つも言えたのに。
勝手に兄さんと自分を比べて、勝手に落ち込んでいるだけ。そんなことは、俺がいちばん分かっている。
「空は、そっち方面に進みたいのか?」
父さんが酒の肴であるイカをつまみながら、なんでもないように尋ねてきた。
「いや、まだ決めてないけど……」
父さんから『医者になれ』と言われたことは一度もない。自由主義というやつか、期待されていないだけか。
虐待されているわけでも、放置されているわけでもない。
むしろ、恵まれている方だと思う。小学校のころ、野球をしたいと言えば地元のチームに入れてくれたし、水泳をやりたいと言えば忙しい中、体験に連れて行ってくれた。
ただなんとなく、居心地の悪さを俺が感じているだけ。
「そうか。やりたいことが見つからないなら、まずは勉強して大学へ行きなさい。何をするにしても、選択肢は多いほうがいい」
「……分かってる」
それだけ言って、俺はリビングから出た。階段を上がって二階へ向かう。
自分の部屋に入るとベッドに倒れ込んだ。電気も点いていない天井を眺めていると、今日のことを思い出す。
夕方、教室でも同じように天井を見ていた。あの時は橙色だったが、今は黒に微かな月明かりが混じっている。
——男としての格、的な?
思い出した声に、顔をしかめる。
なにが格だよ。俺の彼女だって知っていて。なんであんな俺が悪いみたいな顔ができるんだ。
彩沙だって。別れたいなら、そう言ってくれればよかったのに。
別れたくないと泣き叫ぶような男にでも見えたのだろうか。
……やめよう。考えたところで現実は変わらない。
けど明日から、どんな顔して学校に行けばいいのだろう。陸も彩沙も学年はおろかクラスまで同じだ。顔を合わさないなんてことは不可能だ。
「……なんで、俺が困ってんだよ」
深いため息とともにベッドから身体を起こす。
ふと机に目をやると、カバンの横に置かれた小さな透明な袋が目に入った。
莉音がくれた、星型の琥珀糖だ。
「何だったんだろうな」
頭に手を置いてみると、莉音の指先の感触が今でも残っている気がした。
どうやらやはり、華やかな人間というのは距離感が近いらしい。
なおサンプル数2。陸と莉音だけ。
自分に自信があるから、ああいう踏み込んだ振る舞いができるのだろうか。
袋を開けると、ほのかに砂糖の甘い匂いが立ち上がる。一つをつまんで口に運ぶと、しゃりと外側がほどけていき、中のゼリーが溶け出した。
「……甘い。おいしい」
その甘さが、居心地の悪さを和らげてくれた気がした。
◇ ◇ ◇
あれから、数日が経った。
昼休み。いままでなら陸に弁当のおかずを取られて、文句を言って。俺も取り返して、そんなくだらないことで笑っていた。
今は自分の席で、一人で弁当を食べている。
彩沙とも陸とも、あの日からまともに話していない。
すれ違っても気まずそうにするどころか、何事もなかったかのような顔をしていた。身構えて登校してきた俺がバカみたいだ。
話しかけたいとも思わなかった。何を言われても腹が立つだけだろう。
今日も陸の周りには、いつものように人が集まっていた。誰かが何かを言って、どっと笑い声が上がる。陸も笑って、隣にいる彩沙がその腕を叩いていた。
もともと、彩沙と陸は別のグループだったはずなのに。陸はクラスの中心のグループで彩沙は二番手ぐらいのグループ。
まあ、付き合い出したのならグループも変わるのだろうか。
二人にとっては、もう終わった話なのだろう。俺がいなくても、何も変わらない。教室で俺といなくても、他に一緒にいる相手がいる。
そもそも陸がなぜか俺に話しかけてくれていただけで、別に同じグループだったわけでもない。
あんなことがあった以上、陸とも彩沙とも今までの関係ではいられない。
これは本来の場所に戻っただけだ。俺は教室の端っこにいる人間で、陸は中心にいる。それが正しい場所。
もともと、交わるはずのなかった人間がたまたま一時だけ重なっていただけだ。そう考えれば、気にする必要もない。
一人で過ごすのは苦手じゃない。高校に入るまでは、教室の端で本を読んでいることだって多かったのだから。
ただ弁当を食べ終わるのは早くなった。
なにも話さずに箸だけ動かしていれば当然か。空っぽになった弁当を片付け、カバンへしまう。
まだ昼休みの時間が余っていて、机の中から適当に取り出した教科書を開いた。
父さんにも勉強しておけと言われたし。文字を追っている間にも、教室の真ん中では楽しそうな声が続いていた。
「…………」
俺はイヤホンを耳に突っ込んだ。
◇ ◇ ◇
放課後、帰りのホームルームが終わると、教室の空気は一気に弾ける。
今日はシフトもない。バイトはやめることも考えたが、彩沙の件は関係なく今のバイトは楽しい。
オーナーは元々、有名な書道家だったらしい。『引退後の道楽だよ』と笑っていた。そんな人が営んでいるのが和風喫茶『月白』だった。
『茶道とは、一碗のお茶を介して、亭主と客が一つの時間と空間をつくり、互いをもてなし、心を通わせる日本の総合文化』——店で教わったその言葉が好きだった。
肩書や人間関係にかかわらず、互いを『一人の個人』として向き合う。そんな空間に居心地の良さを感じていた。
今ではときおり、オーナーに茶道の手ほどきを受けている。
さて帰り支度も終わったし、家に帰るか——いや、気分転換も兼ねてどこかに寄って行こうか。
と言っても、ぱっと思いつくのは本屋ぐらいしかないが。そういえばこの前、隣街に茶道具店があるとオーナーが言っていた。そっちに行ってみても——。
「あの、弾木くん……」
放課後の予定を立てながら机の中身をカバンにしまっていると突然、名前を呼ばれた。
顔を上げると、女子生徒が長い黒茶色の毛先をクルクルと弄りながら俺を見ていた。
「三ヶ峯、さん?」
三ヶ峯悠亜。クラスの中でも目立つ女子の一人。いつも友達に囲まれていて、男子からも可愛いと評判で人気がある。
まともに話した記憶はない。当然、こうして俺の席まで来る理由にも心当たりがなかった。
何の用だろう、と見上げていると三ヶ峯は胸元で指先を重ね、顔を伏せた。
「あの……弾木くん……ちょっと、話があるんだ……けど」




