1「彼女だった女、親友だった男、頭を撫でてくれる美少女」
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「空とはもういいかなーってなって。ごめんね」
放課後の二年B組の教室。松原彩沙は頬に指先をあて、悪びれもせず言った。
彩沙とは半年前、いきなり告白されてから付き合っていた。けれど今、彼女が身体を寄せている相手は俺じゃない。
「まっ、潔く身を引くのも男の甲斐性ってやつじゃね?」
彩沙の肩を抱き、勝ち誇ったような顔で笑うのは、取垣陸。
「陸、お前……知ってただろ?」
未だ状況が理解しきれず、混乱する頭で訊ねた。
委員会の仕事終わり。カバンを取りに教室に戻った俺の視界に飛び込んできたのは、誰もいない夕暮れの教室で二人が唇を重ねている光景と乱れた制服だった。
陸とは高校に入ってからの付き合い。陽気で誰からも好かれる男は、教室の端にいるだけの俺にも、当たり前のように声をかけてくれた。
弁当のおかずを取っただの、取ってないだの騒いで、くだらない話をしながら下校する。
人生で初めて彼女ができたことも、真っ先に報告した。『よかったな! 親友として誇らしいぜ』と誰より喜んでくれていたのに。
「そう言われてもなぁ。彩沙が俺がいいって言うんだからしゃーなくね?」
白々しい困り顔を浮かべながら、彩沙の肩を抱き寄せる。彩沙は嫌がるどころか、うっとりとした瞳で陸を見つめている。
……そんな顔するんだ。初めて見た。
「私もね、言おうとは思ったんだよ? でも、ちょっとタイミングというか、そういう空気を作ってくれなかったっていうか——」
「……俺のことは、もう好きじゃないってことか?」
「なにそれ、カンジ悪っ」
そっぽ向いて、拗ねた顔をする彩沙。その顔は何度も見たことがあった。
ついさっき、『もういいかなー』と言ったのはそっちなのに。
「まあまあ、彩沙も空もいったん落ち着けよ。人生、そう上手くいかねぇってことだろ」
「……なに他人事みたいにまとめてんだよ」
俺が睨みつけると、陸はこれ見よがしに大きく嘆息する。
「お前、そういうとこ良くないぞ? 親友として心配してやってんのに」
「『親友の彼女』に手を出すのかよ」
「だからさ、そういうとこだって。女々しいんだよ。男としての格、的な?」
「そうだよ空。陸に八つ当たりしないでよ」
その態度にふつふつと怒りが湧き上がってくる。
彩沙が心変わりしてしまった。こればかりは仕方がない。
彼氏として、俺にも良くないところはあっただろう。そう思って終わらせることは、ギリギリできた。
ただ、せめてまともな謝罪の一つぐらいあるべきだと思うのは、俺が間違っているのか。こんな不意打ちみたいな方法で知らされても。
「……不誠実だろ」
「なにそれ、私が悪いみたいじゃん」
「空にもそのうち、いいことあるって」
二人のあまりの言い草に、声が出なかった。
俺が何も言わないのを見ると、話は終わりだとばかりに、
「じゃあ俺ら帰るから。お前も早く帰れよ」
陸が俺の肩をポンと叩いて、彩沙と腕を絡めたまま教室から出て行く。
——この後、うち来いよ。
——えー、また? どうしようかな。
残された俺から二人の声が離れていく。それが終わりの合図に思えて。
「…………」
天井を見上げた。電灯が消されていて、窓から差しこむ橙と影の黒が境界線のように混ざりあっている。
「振られた、ってことか……」
誰もいなくなった教室に声が溶けていく。
一人になった途端、急激に頭が冷めていく。向ける相手もいないのに一人怒るのもバカバカしくて、代わりに俺の胸を支配していたのは喪失感だった。
周りの音が聞こえなくなっていき、静かで世界に独りだけになってしまったような。
「はあ……」
最後がこんな結末とは。俺なりに上手くやっていたつもりだった。
駅前の店を予約するのも、プレゼントを選ぶのも。『デート代は男の子が出すのが普通だよ』と言うから、バイトも始めた。
少しわがままなところはあったが、それは俺を好きだから甘えてくれているのだと思っていた。
それでも何を考えているのか分からなくて、悩んだときは全部、全部——陸に相談していた。
俺の顔を覗き込んで、『しゃーねーな』と人好きのする顔で笑う。だから、味方だと思っていたのに。
陸とキスをしていた彩沙の顔を思い出す。あんな顔、見たことなかった。そもそも、キスどころか手を繋いだこともなかった。毎回、『恥ずかしいから……』とはぐらかされて。
「遊ばれた、か……?」
呟いてみても返事は返ってこない。
そのまましばらく、少し黄ばんだ天井をぼーっと眺めていた。
だんだん橙色が少なくなっていって、黒が増えていく。
呆然としていた俺は、飛び込んできたチャイムの音にハッと我に返った。
時計を見やると18時を回ろうとしていた。いつの間にか最終下校時刻が近づいている。どうやら30分くらい立ち尽くしていたらしい。
次いで音が戻るように、窓の外から部活動の生徒たちの活気ある声。
俺が立ち尽くしている間にも、俺の気分なんてお構いなしに日常はいつも通りに進んでいく。
だからこそ。
「……切り替えなきゃ、な」
いますぐは無理でも、少しずつ。
一つ大きく息を吐いて、
「バイト……行くか」
自分の席からカバンを取った。
今日はシフトが入っている日だ。正直、いますぐに家に帰って布団を被りたい気分だけど、当日欠勤なんてバイト先にも、同じシフトの人にも迷惑がかかる。
カバンを肩にかけ直した俺は、重い足取りで教室から出た。
◇ ◇ ◇
学校から15分ほど歩いたところにある、バイト先の和風喫茶『月白』。今日のシフトは18時30分からと少し遅めの出勤。
バックヤードの机にカバンを置き、一息つくと、
「お疲れさま、空」
背後から落ち着いた声がかけられた。振り返ると、日葵莉音が立っていた。
涼しげな顔立ちに、作務衣をアレンジした喫茶の制服からすらりと伸びる手足。
いつもは肩口で揺れるアッシュベージュの髪は、花柄の髪留めでまとめられ、すっきりとした首筋を覗かせていた。
俺と同じ高校二年生。学校は別でとなり町にあるこの辺一番の進学校に通っているらしい。
手にはラミネート加工のPOPが数枚。夏の新作写真に手書きの文字が添えられている。これから客席に配りに行くところらしい。
「日葵……お疲れ」
「莉音」
俺の返事に口を尖らせる。初めてバイトに入ってきた日から、なぜか名前で呼ばせたがる。
彼女がいるのに他の女の子を名前呼びするのは、いかがなものかと曖昧に対応をしていたら、いつの間にかこんな反応をするようになった。
もうその彼女もいないんだが……。なんて内心で呟いてみると、胸の奥がチクリと痛んだ。同時に、ずっと張っていた意地みたいなものが、ふっと抜けていく。
「……り、莉音」
……声が震えてしまった。
俺がぎこちなく名前を呼ぶと、莉音は一瞬目を丸くして、顔を伏せるように頷いた。
「っ……! よ、よろしい……っ」
耳元の控えめなピアスが光って、どんどんと声が小さくなっていく。
日葵莉音——見る者をどこか刺すような、それでいて柔らかな雰囲気をまとった少女。もっと華やかな場所が似合いそうで、同い年のはずなのに、俺とは住む世界がまるで違う。
なんで落ち着いた和風喫茶をバイト先に選んだのだろうか。彼女が入ってきた時、最初に思ったのはそれだった。
もっとも勤務態度はいたって真面目。店の看板娘として彼女目当ての客もいるくらいで、連絡先を聞かれている瞬間も何度か目撃した。
好きな人がいると全部断っているみたいだが。きっと、もう付き合っている男がいるのだろう。
こんな美人に好かれるなんて、ちょっと羨ましい。俺みたいな経験をすることもなさそうだ。
「……空。……えっと、見つめるの……禁止」
金色の瞳を揺らし、手に持っていたPOPですっと顔を隠す莉音。
「わ、悪い」
ジロジロと顔を見すぎたかもしれない。
キモいとか思われてなければいいけど。彼女に振られたその日に、バイト先の女の子にキモいと思われるなんて追い打ちを喰らったら、二度と立ち直れないかもしれない。
「空、顔色悪い?」
思考を巡らし黙り込んでいる俺に、POPの端から顔を出した莉音が、潤んだ瞳で見つめてくる。
「……別に……ちょっと寝不足、とか?」
そんなわけない。昨日はしっかり8時間寝た。さすがに『彼女を親友に取られました』とは、俺の僅かに残ったプライドが言わせなかったみたいだ。
「空、嘘つくの下手。いつもより、表情がぐちゃぐちゃ」
「そ、そうか?」
「爆心地みたい」
「なんだよそれ」
思わず笑ってしまい、自分の顔を触ってみる。そんなにヒドい顔をしているのだろうか。いつもと同じようにしているつもりだけど。
「ん、笑った」
ふっと目元を緩め、莉音が小さく笑う。涼しげで近寄りがたい普段の表情から、不意に零れるその柔らかな笑みが、いま店の客たちの間で密かに話題になっていた。
「嫌なことあったら、話すと楽になる。UCLAの研究でもそう言ってる」
後半の根拠はよく分からないが、莉音はたまにこういう妙な雑学を挟んでくる。
まあ、話すと楽になるというのは俺も聞いたことはある。
莉音みたいな華やかな子であれば、恋愛経験の一つや二つぐらいあるだろう。彼氏もいるみたいだし。『振られた』だけならよくある話だ。いい割り切り方を知っているかもしれない。
「あー、実は……彼女に、振られてさ」
内心は悲鳴を上げたい気分だったが、過去のことだと言い聞かせるように、なるべく平然と言ってみた。うっ、なんだか胃が、キリキリしだした。
「えっ……」
途端、莉音の表情が固まった。持っていたPOPを落としそうになって、慌てて両手で掴み直した。そんなに驚くことだろうか。
なにかを言おうと口を開いて、閉じる莉音。何度か繰り返して、ようやく言葉を発した。
「じゃ、じゃあ……い、いま、つ、付き合ってる人、いない……?」
「いないよ。綺麗さっぱりフリーだ」
肩をすくめ、わざとおどけて笑ってみせると、
「そ、そっか。……お揃い」
妙に顔を赤らめ、消え入るような声が返ってきた。
好きな人って彼氏じゃなかったんだ。これだけ可愛いのに好きな人と付き合えてないとか、世の中どうなってるんだ。
……そう思うとちょっと楽になったかも。
「それで、顔色悪く見えるのかも」
「…………」
うつむいて何かを考え込む莉音。手に持ったPOPを机において。
顔を伏せたまま、そっと俺の制服の裾を掴んだ。
「座って」
「え?」
置かれたパイプ椅子を引く莉音。
「い、いいから」
困惑しつつも勧められるまま、俺はパイプ椅子に腰掛けた。ギィ、と年季を感じさせる音が鳴る。何をするのだろう、と莉音を見やろうとして。
さっと逃げるように俺の背後に回る莉音。
「まえ、見て」
「あ、ああ……」
言われるままに前を向いた、その時だった。
「よしよし」
「——っ!」
背後に立った莉音が、急に頭を撫でてきた。細く長い指が髪の上をゆっくりと。触れているのは指先だけなのに包み込むような優しさで。
緊張で身体が固くなり、動きが止まってしまう。
「なっ、なんだよ……」
「ふ、ふれあいは、副交感神経が優位に……なる。オキシトシン、だいじ……」
初対面からいきなり名前呼びしてきたり、距離感近いと思う瞬間はあったが、こんなことをするのは初めてだった。
陽の者の距離感、分からん。そういえば陸も……いや、あいつのことを考えるのはやめておこう。
なにかを言おうにも心臓がうるさすぎて声が出ない。
莉音の指先が動くたび、さっきまでキリキリ痛んでいた胃の重苦しさが引いていく。それが心地よくて、しばらく身を任せていた。
数秒とも数時間とも思える長さのあと、上からおずおずとした声が降ってくる。
「ど、どう……?」
どう? と言われても……。
「えっと……あ、ありがとう? 楽になった」
「ん……いつでも言って」
なんで俺はバイト先の同僚の女の子に頭撫でられて、あまつさえお礼を言ってるんだ。
そう思うと、段々と体温が上がっていく。
「お、俺、着替えて来るからっ!」
限界を迎えた俺は、莉音の顔を見ないように男子更衣室に逃げ込んだ。
男子更衣室はバックヤードの一角をカーテンで仕切っただけなので、逃げれているかは微妙なのだが。
シャッとカーテンを閉める。逸る鼓動を落ち着けていると、パタパタと足音が遠ざかりドアが閉まる音がした。莉音がホールへ出ていったらしい。
「なんだったんだ……」
残された俺の声だけが、部屋の中で溶けていった。




