「生命エネルギー」
牡蠣が刺身 食の弟子になってから、まだ一週間しか経っていなかった。だが、その一週間は牡蠣にとって非常に長く感じられた。朝は日の出より少し前に起こされ、食事を済ませるとすぐに山を走らされる。山頂から山道を下り、途中まで行ったところで折り返し、今度は山頂まで戻ってくる。それを何度も繰り返すのだ。初日は途中で何度も転び、二日目には足が痛くなり、三日目には階段を上るだけでも息が切れるようになった。それでも食は一切手加減しなかった。
「じいさん、もう無理だ……。」
山道の途中で牡蠣は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
「まだ半分も来ておらんぞ。」
「嘘だろ……。」
「本当じゃ。」
「俺、昨日もここ走ったぞ。」
「そうじゃな。」
「一昨日も。」
「そうじゃ。」
「だったら今日は休ませてくれよ!」
食は少し離れた場所で腕を組みながら笑った。
「休むのは簡単じゃ。じゃが、強くなるのは休んでいる間ではないぞ。」
「……。」
その言葉に牡蠣は何も返せなかった。食の言うことが正しいのかは分からない。それでも、あの日に自分の拳が隕石を砕いたことだけは事実だった。あの力をもう一度使えるのか。それとも、あれはただの偶然だったのか。確かめるためにも、今は食についていくしかない。
「ほら、立て。」
「分かったよ……。」
牡蠣は重い足を動かし、再び山道を走り始めた。
そんな日々を繰り返して数日が経った頃、牡蠣はようやく食の修行にも少し慣れてきた。身体はまだ辛いものの、初日ほど息が上がらなくなっている。それに気付いた食は、ある日の昼過ぎ、山頂へ戻ってきた牡蠣に声をかけた。
「今日は走るのはここまでじゃ。」
「本当か!?」
「うむ。」
牡蠣はその場に座り込んだ。
「助かった……。」
「ただし、今日から別の修行をする。」
「……別の?」
牡蠣が顔を上げる。
食は庭の中央に座り、牡蠣にも向かい側へ座るよう促した。
「生命エネルギーの修行じゃ。」
牡蠣の表情が変わった。
「生命エネルギー……。」
以前、食から聞いた言葉だった。指スマを使うために必要な力。そして、使えば寿命を消費する危険な力。
「どうすればいい?」
「まず目を閉じろ。」
牡蠣は言われた通り目を閉じた。
「身体の中へ意識を向けるんじゃ。」
「身体の中?」
「そうじゃ。心臓の鼓動を感じろ。呼吸を感じろ。血が流れていることを感じろ。自分が生きていることを感じるんじゃ。」
牡蠣は静かに呼吸した。鼻から空気を吸い、ゆっくりと吐き出す。周囲の音が少しずつ遠くなっていく。木々の葉が風に揺れる音、鳥の鳴き声、遠くで流れる水の音。その全てを聞きながら、自分の身体へ意識を集中させる。
ドクン。
心臓が鳴る。
ドクン。
また鳴る。
牡蠣はその鼓動を追いかけるように意識を深くしていく。しかし、何も見えない。何か特別な力があるようにも感じられない。
「……分からない。」
牡蠣は目を開いた。
食は落ち着いた様子で牡蠣を見る。
「何がじゃ。」
「何も感じない。」
「最初はそれでいい。」
「本当に分かるようになるのか?」
「それは、おぬし次第じゃ。」
牡蠣は少し不満そうな顔をした。
「じいさんは分かるんだろ?」
「ああ。」
「じゃあ教えてくれよ。」
「教えることはできる。」
「じゃあ!」
「じゃが、感じるのはおぬし自身じゃ。」
牡蠣は黙った。
食は続ける。
「生命エネルギーは、誰かから受け取るものではない。おぬし自身の中にあるものじゃ。ワシが代わりに感じることはできても、おぬしの身体にあるものをワシが直接教えることはできん。」
「……難しいな。」
「簡単なものなど強い力にはならん。」
牡蠣はもう一度目を閉じた。
それから何時間も同じことを繰り返した。呼吸を感じ、心臓を感じ、身体の隅々へ意識を向ける。しかし何も起こらない。日が傾き、空が赤く染まっても、牡蠣は座り続けていた。
「今日はここまでじゃ。」
「まだやれる。」
「明日に響く。」
「でもまだ何も分からない。」
「だからこそ今日は終わりじゃ。」
食の言葉に、牡蠣は渋々立ち上がった。
その日の夜、布団へ入っても牡蠣は眠れなかった。目を閉じると、あの日の光景が浮かんでくる。巨大な隕石。逃げることのできなかった自分。そして、怒りに任せて振り抜いた拳。あの瞬間、自分の身体で何が起こったのか。牡蠣には何も分からなかった。
「……俺は、あの時何をしたんだ。」
小さく呟いても答えは返ってこない。
翌朝も修行は続いた。走り込みを終えた牡蠣は、昨日と同じように庭へ座った。
「目を閉じろ。」
食の声に従う。
「力を探すな。」
「じゃあ何をすればいい?」
「感じろ。」
「それができないから困ってるんだよ。」
「ならば、できるまで続けるしかない。」
牡蠣はため息をついた。
それでも目を閉じる。
時間が過ぎていく。
一時間。
二時間。
三時間。
何もない。
牡蠣は焦り始めていた。
「……やっぱり俺には無理なんじゃないか?」
その言葉に食が反応した。
「なぜそう思う?」
「何日やっても何も分からない。」
「何日やった?」
「まだ……一週間。」
「たった一週間で何を判断する。」
牡蠣は黙った。
食は静かに続けた。
「おぬしは十歳じゃ。昨日まで何も知らなかった少年が、一週間で生命エネルギーを自由自在に扱えると思うか?」
「……思わない。」
「ならば焦る必要はない。」
牡蠣は再び目を閉じた。
食の言葉を思い出しながら、ゆっくりと呼吸する。
そして、自分の身体へ意識を向けた。
ドクン。
心臓。
スッ。
呼吸。
自分の身体。
自分の指。
その全てを一つずつ感じていく。
すると、その時だった。
ほんの一瞬だけ、右手の親指に妙な感覚が走った。
「……!」
牡蠣は目を開きそうになった。
だが、すぐに閉じる。
今、何かを感じた。
熱のようなもの。
力のようなもの。
言葉では表せない何かが、親指の先に集まったような気がした。
牡蠣は意識をそこへ集中させる。
すると、その感覚はほんの少しだけ強くなった。
「これ……。」
牡蠣は思わず声を漏らした。
だが、集中が乱れた瞬間、その感覚は消えた。
「……消えた。」
牡蠣が目を開く。
食はその様子を見ていた。
「今、何か感じたか?」
「うん。ほんの一瞬だけ。」
「どこじゃ?」
「右手の親指。」
食は静かに頷いた。
「ならば、それを覚えておけ。」
「これが生命エネルギーなのか?」
食はすぐには答えなかった。
「まだ断言はできん。」
「そっか。」
「じゃが、今まで何も感じなかったおぬしが、初めて何かを感じた。それは大きな一歩じゃ。」
牡蠣は自分の親指を見つめた。
まだ指スマは使えない。
生命エネルギーを自由に操ることもできない。
それでも、初めて自分の中に何かがあると感じた。
それは、隕石を砕いたあの日以来、初めて自分自身の力に触れた瞬間だった。
「もう一回やってみたい。」
牡蠣が言う。
しかし食は首を横に振った。
「今日は終わりじゃ。」
「なんでだよ。」
「今の感覚を追いかけすぎれば、逆に見失う。」
「……分かった。」
牡蠣は少し残念そうにしながらも立ち上がった。
その日の夜、牡蠣は布団へ入る前に右手を眺めていた。
たった一瞬。
ほんの僅かな感覚。
それでも確かに存在した。
自分の中にある、まだ名前しか知らない力。
生命エネルギー。
そして、その先にある指スマ。
一年間の修行は、まだ始まったばかりだった。
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