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「食の指スマ」

 親指を失った翌朝。

 牡蠣はいつもの時間に目を覚ました。


 身体を起こし、寝ぼけた目を擦る。そして何気なく右手を見る。


「……。」


 昨日と同じだった。


 親指がない。


 夢ではなかった。


 牡蠣はしばらく自分の手を眺めていた。昨日までは当たり前にあったものが、今はもうない。握り拳を作ろうとしても、以前とは感覚が違う。


 それでも、いつまでも気にしているわけにはいかなかった。


 牡蠣は小屋を出た。


 外には食がいた。


「起きたか。」


「ああ。」


 食は牡蠣の右手を見る。


「痛みは?」


「もうない。」


「そうか。」


 それだけだった。


 食はそれ以上何も聞かなかった。


 牡蠣も何も言わなかった。


 ただ、昨日のことが頭から離れない。


 あの一撃。


 巨大な岩を一瞬で砕いた。


 自分でも驚くほどの威力だった。


 だが、その代わりに親指を失った。


「じいさん。」


「なんじゃ。」


「昨日の俺の指スマって……どれくらい強かった?」


 食は少し考える。


「今のおぬしにしては、十分すぎるほど強い。」


「じゃあ、もっと強くしたら?」


「また指を失うじゃろうな。」


「……。」


 牡蠣は黙った。


「じゃあ、じいさんは?」


「ワシ?」


「じいさんの指スマは、どれくらい強いんだ?」


 食は牡蠣を見つめた。


「見たいか?」


「……うん。」


 短い返事だった。


 食は少しだけ目を細める。


「ならば、見せてやろう。」


 二人は山頂から少し離れた場所へ移動した。


 そこには巨大な岩山があった。


 牡蠣が昨日壊した岩とは比べものにならない。


 何倍も大きい。


 見上げなければ頂上が見えないほどだった。


「これ?」


「ああ。」


「これを?」


「指スマで撃つ。」


 牡蠣は思わず笑った。


「無理だろ。」


「なぜじゃ?」


「だって、デカすぎる。」


「昨日のおぬしなら、そう思うじゃろうな。」


 食は岩山の前へ歩いていく。


 そして、右手を上げた。


 牡蠣は息を呑む。


 食の周囲から、空気が変わった。


 今まで何度も生命エネルギーについて教えられてきた。


 身体の奥にある力。


 自分の命そのもの。


 牡蠣にも、それが少しずつ分かるようになってきていた。


 だからこそ分かった。


 食の身体から、とてつもない量の生命エネルギーが流れ始めている。


「……これが。」


 食は目を閉じる。


 生命エネルギーが右腕へ集まっていく。


 肩。


 肘。


 手首。


 そして――親指。


 牡蠣は思わず後ろへ一歩下がった。


 空気が震えている。


 何か巨大なものが、この場所に集まっている。


「じいさん……。」


 食は答えない。


 ただ静かに、右手を構える。


 その姿を見た瞬間、牡蠣は思い出した。


 自分が初めて指スマを撃った時とは、何もかもが違う。


 力の量。


 集中の精度。


 そして――。


 覚悟。


「――指スマ。」


 食が呟いた。


 次の瞬間。


「壱ッ!!」


 ――轟音。


 空気そのものが爆発した。


 凄まじい衝撃が山頂を駆け抜け、牡蠣の身体が吹き飛ばされる。


「うわぁっ!」


 地面を転がり、慌てて顔を上げる。


 目の前にあった巨大な岩山が――消えていた。


「…………。」


 牡蠣は言葉を失った。


 岩山のあった場所には、巨大な穴が開いている。


 山の一部どころではない。


 まるで巨大な何かに抉り取られたように、地形そのものが変わっていた。


「これが……指スマ……?」


 食は何事もなかったかのように立っている。


 だが。


 牡蠣は気付いた。


「……じいさん。」


「なんじゃ。」


「手……。」


 食の右手。


 親指が震えている。


 ほんのわずかに。


 だが、確かに。


「今のでも……痛いのか?」


「痛い。」


 食はあっさり答えた。


「じゃが、これくらいなら問題ない。」


「問題ないって……。」


「ワシは長年、生命エネルギーを扱ってきた。それでも、今の一撃で身体には負担がかかっておる。」


 食は自分の手を見つめる。


「そしてな。」


 牡蠣を見る。


「指スマで削っておるのは、身体だけではない。」


「……どういうこと?」


「寿命じゃ。」


 牡蠣の表情が固まった。


「寿命……。」


「ああ。」


 食は静かに頷く。


「生命エネルギーとは、その名の通り生命そのものに近い。使いすぎれば身体を壊す。そして、無理に引き出し続ければ――生きられる時間そのものを削る。」


 牡蠣は何も言えなかった。


 昨日、自分の親指が消えた。


 それだけでも十分に怖かった。


 なのに。


 食はその一撃を何度も使ってきたという。


「じゃあ……。」


 牡蠣の声が小さくなる。


「じいさんは、今まで何回指スマを使ったんだ?」


「数えたことなどない。」


「……。」


「じゃが、使った分だけワシの寿命は減っておる。」


 食は笑った。


「それでも必要な時には使う。」


「怖くないのか?」


「怖いとも。」


 意外な答えだった。


 牡蠣が顔を上げる。


「じゃあ、なんで使うんだよ。」


 食はしばらく黙っていた。


 そして、崩れた岩山を見る。


「力を持つということは、力を使う責任も持つということじゃ。」


「……。」


「使えば失う。使わなければ守れないこともある。そのどちらを選ぶかは、自分で決めるしかない。」


 牡蠣は黙って聞いていた。


 昨日までは、強くなりたかった。


 ただ強くなればいいと思っていた。


 強い指スマを撃てれば、それでいい。


 だが違った。


 指スマは、自分の命を使う技だ。


 威力を上げれば、その分だけ身体に負担がかかる。


 そしてその先には――寿命という、取り戻すことのできないものまである。


「……俺。」


 牡蠣は自分の右手を見る。


「もっと強くなりたい。」


 食は黙っている。


「でも……。」


 牡蠣は拳を握る。


「もう、昨日みたいにはしたくない。」


 食の目が少しだけ細くなった。


「そう思えたなら、昨日の一撃にも意味はあったのう。」


「……え?」


「自分の限界を知らぬ者は、いつか本当に死ぬまで力を使う。」


 食は牡蠣の肩へ手を置く。


「指スマは、力を出す修行だけではない。力を止めることも覚えねばならん。」


 牡蠣は頷いた。


 今までとは違う気持ちだった。


 強くなりたい。


 その気持ちは変わらない。


 だが、ただ強くなるだけでは駄目なのだ。


 自分の身体がどこまで耐えられるのか。


 どこまで力を使っていいのか。


 そして、いつ力を使うべきなのか。


 それを知らなければ、いつか自分自身が壊れてしまう。


「じいさん。」


「なんじゃ。」


「俺、もっとちゃんと指スマを使えるようになる。」


 食は少しだけ笑った。


「そうじゃな。」


 牡蠣はもう一度、巨大な岩山が消えた場所を見る。


 昨日、自分が撃った指スマとは比べものにならない。


 あまりにも強かった。


 そして同時に、あまりにも恐ろしかった。


 ――強さには、代償がある。


 それを知った牡蠣は、この日から指スマをただの破壊の力として見ることをやめた。


 強さを求めるなら。


 その力で何を失うのかも、知らなければならない。


 それが、食から教わった二つ目の指スマだった。

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