「初めての一撃」
その日の修行は、いつもより少しだけ空気が違っていた。
朝の山道を走り終えた牡蠣は、荒い息を吐きながら山頂へ戻ってきた。汗で服は重くなり、足には疲労が溜まっている。それでも、いつものように地面へ倒れ込むことはなかった。目の前にいる食を見つめる。
昨日までとは違う。
今日は、次の段階へ進む日だ。
「じいさん。」
「なんじゃ。」
「今日、やるんだろ?」
牡蠣の視線が、食の親指へ向く。食はそれを見て、小さく笑った。
「覚えておったか。」
「当たり前だろ。」
昨日、食は言った。今度は生命エネルギーを集めるだけではない。その力を、実際に外へ放つ。
つまり――指スマ。
牡蠣がこの一年間で身につけることになる力の、その最初の一歩だった。
「ただし、勘違いするな。」
食がゆっくりと右手を上げる。
「今日やるのは、強い指スマではない。」
「じゃあ何だよ?」
「まずは撃つことじゃ。」
「……撃つ?」
「そうじゃ。力を集め、形を作り、外へ放つ。それだけでよい。」
牡蠣は黙って頷いた。
食は地面に転がっていた拳ほどの石を拾い上げ、少し離れた場所へ置いた。
「狙いはあの石。」
「石?」
「まずはあれに当ててみろ。」
「分かった。」
牡蠣は石の前に立ち、右手を前へ伸ばした。そして、目を閉じる。
身体の奥へ意識を向ける。以前なら、生命エネルギーを探すだけで何度も失敗していた。どこにあるのかも分からず、食に何度もやり直しを命じられた。
だが今は違う。
身体の奥にある感覚が、はっきりと分かる。小さな流れ。自分の命そのものが、身体の中を巡っているような感覚。
牡蠣はそれを、ゆっくりと右腕へ動かした。肩へ。肘へ。手首へ。そして――親指へ。
じん。
親指が熱を持つ。
「……来た。」
「焦るな。」
食の声が飛ぶ。
「そのまま力を集めろ。ただし、昨日までの修行を思い出せ。」
「分かってる。」
牡蠣は生命エネルギーを少しだけ強くする。親指へ集まった力が、さらに濃くなっていく。
熱い。
だが、まだ痛くはない。
昨日までなら、ここから先へ進めば痛みが走った。だからこそ、牡蠣は慎重に力を扱う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「今じゃ。」
食の声が響いた。
牡蠣は目を開く。
「――いけっ!」
親指へ集めた生命エネルギーを、一気に前へ押し出す。
瞬間。
――ドンッ。
小さな衝撃音が山頂に響いた。風が一瞬だけ揺れ、砂埃が舞い上がる。
牡蠣は動かなかった。自分の右手を見つめる。
何も変わっていない。
親指もある。
腕も動く。
身体も壊れていない。
そして、少し離れた場所に置かれていた石を見る。
そこには――小さな傷がついていた。
「……当たった?」
「当たったな。」
食が答える。
「……本当に?」
「ああ。」
牡蠣は石へ駆け寄った。拳ほどの小さな石。その表面には、指一本で押し込んだような浅い亀裂が入っている。
威力だけを見れば、大したものではない。
山を吹き飛ばすわけでもない。
巨大な岩を砕くわけでもない。
それでも。
「俺……。」
牡蠣は自分の親指を見る。
「俺、指スマ撃ったんだ。」
その顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
あの日、隕石が落ちてきた時、牡蠣は怒りに任せて拳を振り抜いた。そして、隕石を壊した。
だが、あれは自分の力が何なのかすら分からなかった。ただ、目の前にあるものを壊したかった。それだけだった。
けれど今は違う。
生命エネルギーを感じた。
それを自分の意思で動かした。
親指へ集めた。
そして、自分の意思で外へ放った。
初めてだった。
自分の力を、自分で操ったのは。
「もう一回やっていい?」
「駄目じゃ。」
「なんで!?」
「今ので十分じゃ。」
「でも、もうちょっと強くできそうだぞ。」
「それが危ないんじゃ。」
食の表情が変わる。牡蠣は黙った。
「今日の一撃は、ほんの小さな力しか使っておらん。」
「……。」
「それでも身体には負担がかかっておる。」
「これくらいなら平気だろ。」
「今はな。」
食は牡蠣の親指を見る。
「じゃが、指スマは力を込めれば込めるほど身体への負担も増える。強くなれば、それだけ危険になる。」
牡蠣は自分の親指を握る。確かに、少しだけ熱が残っている。痛みはない。
だからこそ、まだ大丈夫だと思ってしまう。
「じゃあ、もっと練習すればいいんだな。」
「そうじゃ。」
「もっと強く撃てるようになる?」
「なるじゃろう。」
「じゃあ――。」
牡蠣の目が輝いた。
「やっぱり、もっとやりたい。」
食はため息をついた。
「今日は終わりじゃ。」
「えー!」
「身体を休ませるのも修行じゃ。」
「……分かったよ。」
牡蠣は不満そうに頬を膨らませながらも、右手を下ろした。
初めて撃った指スマ。
威力は小さかった。
それでも牡蠣にとっては、大きな一歩だった。自分の中にある力を、自分の意思で動かせる。それが分かっただけで、世界が少しだけ広がったような気がした。
その日の夜。
小屋の中で横になった牡蠣は、何度も自分の右手を眺めていた。親指はちゃんと残っている。手も動く。身体も普通だ。
なのに、頭の中には昼間の一撃が何度も蘇ってくる。
あの感覚。
生命エネルギーが親指へ集まり、そして一瞬で外へ飛び出した感覚。
「……もっと強くしたら、どうなるんだろう。」
小さく呟く。
石についた傷を思い出す。あれがもっと大きな石だったら。もっと硬い岩だったら。もっと強く生命エネルギーを集めたら。
どこまで壊せるのだろう。
そんな考えが、頭から離れない。
しかし、食の言葉も同時に蘇る。
――強くなれば、それだけ危険になる。
牡蠣はしばらく黙っていた。そして、布団の中で右手を握る。
「……俺は、もっと強くなる。」
その言葉に、迷いはなかった。
翌朝。
牡蠣はいつもより早く起きた。山頂へ出ると、朝日に照らされた景色が目に入る。崩壊した世界の中で、食のいるこの山だけが変わらず残っている。
牡蠣は拳を握った。
昨日、初めて撃った指スマ。
今日からは、もっと上手く使えるようになる。
そしていつか――。
食が放った、あの一撃に届く。
そのために、今日も走る。
「じいさん!」
牡蠣が声を上げる。
「今日もやろうぜ!」
食は振り返り、口元を緩めた。
「まずは走れ。」
「またかよ!」
山頂に、牡蠣の声が響く。
こうして修行の日々は続いていった。
そして牡蠣はまだ知らなかった。
指スマは、ただ強く撃てばいい技ではない。
力を求めれば求めるほど、その代償もまた大きくなる。
そのことを――牡蠣が自分の身体で思い知る日が、すぐそこまで迫っていた。
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