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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
マリーアントワネット

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第7話 プチ・トリアノンの息

 1777年ごろ、わたしはプチ・トリアノンで、久しぶりに自分の息の音を聞いた。


 ヴェルサイユ本宮から遠く離れているわけではない。けれど、宮殿の大きな廊下から少し外れるだけで、空気は驚くほど変わる。ここでは、誰が先に部屋へ入るかで朝が始まらない。窓から入る光、庭の緑、風に揺れる布。そういうものが先に来る。


 わたしは王妃だった。


 でもここでは、その言葉の重さが少しだけ薄くなる気がした。


「陛下、こちらの部屋はどうなさいますか」


 侍女が尋ねた。


「明るくしたいわ。人が息を詰めない部屋に」


「ヴェルサイユでは、少し珍しいご希望でございますね」


「だからいいの」


 言ってから、自分でも少し笑った。


 ヴェルサイユでは、何もかもが見せるために整っている。けれどわたしが欲しかったのは、見せるための部屋ではなかった。息を吐くための場所だ。誰かに採点される前に、ただ座れる椅子。ただ笑える時間。ただ黙っていても意味を探られない沈黙。


 そんなものが王妃に必要だと、宮廷はあまり考えてくれない。


 だから自分で作るしかなかった。


 ******


 プチ・トリアノンでの時間は、わたしを少し子どものころへ戻してくれた。


 音楽を鳴らし、親しい者たちと話し、芝居の稽古をする。大広間の拍手ではなく、近い距離の笑い声があった。衣装も、髪も、少し軽くしたかった。重い宝石を外し、硬い儀礼を離れ、白い布の肌触りや庭の匂いを選ぶ。


 その軽さが、わたしには必要だった。


 けれど、軽さはすぐに噂になる。


「王妃はまたトリアノンへ」


「お気に入りだけをお呼びになるそうだ」


「宮廷をお嫌いなのだろう」


 そういう声は、本人の耳へ届くころには少し形を変えている。けれど、芯の冷たさは変わらない。わたしが息をしたいだけの場所は、外から見ると閉じた小さな王国に見えるらしい。


「陛下、あまり人を選びすぎると」


 側近が言いにくそうに口を開いた。


「選ばなければ、わたしはここでも息ができないわ」


 少し強く言いすぎた。


 相手の表情が曇る。


 その曇りを見て、わたしはすぐに分かった。正しいか間違っているかではない。王妃の言葉は、強く出た瞬間に別の意味を持ってしまう。


 わたしは自由を求めるほど、誰かを遠ざけているように見える。


 そして、遠ざけられたと思った人々は、王妃をもっと遠くへ押しやる。


 ******


 プチ・トリアノンの小さな劇場で、わたしは舞台に立つ時間を愛した。


 王妃が芝居をする。そう聞けば、眉をひそめる人もいるだろう。けれど舞台の上では、わたしは一瞬だけ別の人になれる。王妃でも、オーストリア女でも、噂の的でもない。与えられた役の言葉を話し、役の感情で笑い、役の悲しみで目を伏せる。


 不思議なことに、演じている時のほうが自由だった。


 普段のわたしは、王妃という役を降りられない。


「陛下、本当にお楽しそうでございます」


 親しい者がそう言った。


「楽しいわ。ここでは、悲しむ台詞まで決まっているもの」


「それは楽なのでしょうか」


「現実よりは」


 言ってから、少しだけ笑った。


 現実では、どの表情が正解なのか分からない。喜べば軽い。悲しめば芝居がかっている。怒れば高慢。黙れば陰謀。けれど舞台では、台詞が与えられる。悲しむ場面では悲しんでよい。笑う場面では笑ってよい。


 だからわたしは、舞台の上で息をした。


 ただ、その息さえ、外へ出ればまた噂になる。


 王妃は遊んでいる。


 王妃は民を忘れている。


 わたしが一瞬だけ人間に戻る時間は、他人の目にはまた別の贅沢として映るのだった。


 ******


 1780年前後のプチ・トリアノンで、わたしは庭を歩きながら、自分の願いの小ささと大きさに戸惑っていた。


 ただ、自然なものがほしかった。


 作りこまれた自然だと笑う人もいるだろう。実際、庭も建物も人の手で整えられている。けれど、ヴェルサイユの公の部屋に比べれば、ここにはまだ風が流れていた。鳥の声が聞こえ、土の匂いがあり、靴の裏に小石の感触があった。


 王妃は、自然まで選んではいけないのだろうか。


 そんなことを考えていると、遠くで笑い声がした。親しい者たちの声だ。わたしはそちらへ歩きかけて、ふと立ち止まった。


 この笑い声も、外へ出れば別の言葉になる。


 気まま。軽薄。浪費。お気に入りだけの宮廷。


 わたしはまだ、その言葉の本当の怖さを知らなかった。噂はただの噂だと思っていた。間違っていれば、いつか分かってもらえる。そう信じたい気持ちがあった。


 けれど世評は、事実だけでできていない。


 人々が見たい王妃の姿を、わたしの上に重ねていく。


「陛下?」


 呼ばれて、わたしは顔を上げた。


「今行くわ」


 そう答えて歩き出す。


 足元の砂利が、小さく鳴った。


 ******


 プチ・トリアノンは、わたしにとって逃げ場だった。


 けれど逃げ場は、外から見れば秘密の場所になる。


 秘密の場所には、人の想像が入り込む。


 わたしはそこで初めて知った。王妃が自分のために扉を閉めると、人々はその扉の向こうを勝手に描く。実際に何があるかより、見えないことのほうが人を刺激する。


 ヴェルサイユ本宮へ戻ると、廊下の空気が少し硬く感じられた。


 誰かが礼をする。


 誰かが笑う。


 誰かが扇の陰で囁く。


 わたしはそれを見ないふりで歩いた。見ないふりも、もうずいぶん上手くなった。上手くなったぶんだけ、胸の奥に沈むものも増えた。


 息をするために作った場所が、わたしを責める材料になる。


 それでも、わたしはプチ・トリアノンを手放せなかった。


 あそこには、王妃としてではなく、わたしとして息をする時間があったからだ。


 ただ、その時間の代償を、わたしはまだ正しく量れていなかった。


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