第7話 プチ・トリアノンの息
1777年ごろ、わたしはプチ・トリアノンで、久しぶりに自分の息の音を聞いた。
ヴェルサイユ本宮から遠く離れているわけではない。けれど、宮殿の大きな廊下から少し外れるだけで、空気は驚くほど変わる。ここでは、誰が先に部屋へ入るかで朝が始まらない。窓から入る光、庭の緑、風に揺れる布。そういうものが先に来る。
わたしは王妃だった。
でもここでは、その言葉の重さが少しだけ薄くなる気がした。
「陛下、こちらの部屋はどうなさいますか」
侍女が尋ねた。
「明るくしたいわ。人が息を詰めない部屋に」
「ヴェルサイユでは、少し珍しいご希望でございますね」
「だからいいの」
言ってから、自分でも少し笑った。
ヴェルサイユでは、何もかもが見せるために整っている。けれどわたしが欲しかったのは、見せるための部屋ではなかった。息を吐くための場所だ。誰かに採点される前に、ただ座れる椅子。ただ笑える時間。ただ黙っていても意味を探られない沈黙。
そんなものが王妃に必要だと、宮廷はあまり考えてくれない。
だから自分で作るしかなかった。
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プチ・トリアノンでの時間は、わたしを少し子どものころへ戻してくれた。
音楽を鳴らし、親しい者たちと話し、芝居の稽古をする。大広間の拍手ではなく、近い距離の笑い声があった。衣装も、髪も、少し軽くしたかった。重い宝石を外し、硬い儀礼を離れ、白い布の肌触りや庭の匂いを選ぶ。
その軽さが、わたしには必要だった。
けれど、軽さはすぐに噂になる。
「王妃はまたトリアノンへ」
「お気に入りだけをお呼びになるそうだ」
「宮廷をお嫌いなのだろう」
そういう声は、本人の耳へ届くころには少し形を変えている。けれど、芯の冷たさは変わらない。わたしが息をしたいだけの場所は、外から見ると閉じた小さな王国に見えるらしい。
「陛下、あまり人を選びすぎると」
側近が言いにくそうに口を開いた。
「選ばなければ、わたしはここでも息ができないわ」
少し強く言いすぎた。
相手の表情が曇る。
その曇りを見て、わたしはすぐに分かった。正しいか間違っているかではない。王妃の言葉は、強く出た瞬間に別の意味を持ってしまう。
わたしは自由を求めるほど、誰かを遠ざけているように見える。
そして、遠ざけられたと思った人々は、王妃をもっと遠くへ押しやる。
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プチ・トリアノンの小さな劇場で、わたしは舞台に立つ時間を愛した。
王妃が芝居をする。そう聞けば、眉をひそめる人もいるだろう。けれど舞台の上では、わたしは一瞬だけ別の人になれる。王妃でも、オーストリア女でも、噂の的でもない。与えられた役の言葉を話し、役の感情で笑い、役の悲しみで目を伏せる。
不思議なことに、演じている時のほうが自由だった。
普段のわたしは、王妃という役を降りられない。
「陛下、本当にお楽しそうでございます」
親しい者がそう言った。
「楽しいわ。ここでは、悲しむ台詞まで決まっているもの」
「それは楽なのでしょうか」
「現実よりは」
言ってから、少しだけ笑った。
現実では、どの表情が正解なのか分からない。喜べば軽い。悲しめば芝居がかっている。怒れば高慢。黙れば陰謀。けれど舞台では、台詞が与えられる。悲しむ場面では悲しんでよい。笑う場面では笑ってよい。
だからわたしは、舞台の上で息をした。
ただ、その息さえ、外へ出ればまた噂になる。
王妃は遊んでいる。
王妃は民を忘れている。
わたしが一瞬だけ人間に戻る時間は、他人の目にはまた別の贅沢として映るのだった。
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1780年前後のプチ・トリアノンで、わたしは庭を歩きながら、自分の願いの小ささと大きさに戸惑っていた。
ただ、自然なものがほしかった。
作りこまれた自然だと笑う人もいるだろう。実際、庭も建物も人の手で整えられている。けれど、ヴェルサイユの公の部屋に比べれば、ここにはまだ風が流れていた。鳥の声が聞こえ、土の匂いがあり、靴の裏に小石の感触があった。
王妃は、自然まで選んではいけないのだろうか。
そんなことを考えていると、遠くで笑い声がした。親しい者たちの声だ。わたしはそちらへ歩きかけて、ふと立ち止まった。
この笑い声も、外へ出れば別の言葉になる。
気まま。軽薄。浪費。お気に入りだけの宮廷。
わたしはまだ、その言葉の本当の怖さを知らなかった。噂はただの噂だと思っていた。間違っていれば、いつか分かってもらえる。そう信じたい気持ちがあった。
けれど世評は、事実だけでできていない。
人々が見たい王妃の姿を、わたしの上に重ねていく。
「陛下?」
呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「今行くわ」
そう答えて歩き出す。
足元の砂利が、小さく鳴った。
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プチ・トリアノンは、わたしにとって逃げ場だった。
けれど逃げ場は、外から見れば秘密の場所になる。
秘密の場所には、人の想像が入り込む。
わたしはそこで初めて知った。王妃が自分のために扉を閉めると、人々はその扉の向こうを勝手に描く。実際に何があるかより、見えないことのほうが人を刺激する。
ヴェルサイユ本宮へ戻ると、廊下の空気が少し硬く感じられた。
誰かが礼をする。
誰かが笑う。
誰かが扇の陰で囁く。
わたしはそれを見ないふりで歩いた。見ないふりも、もうずいぶん上手くなった。上手くなったぶんだけ、胸の奥に沈むものも増えた。
息をするために作った場所が、わたしを責める材料になる。
それでも、わたしはプチ・トリアノンを手放せなかった。
あそこには、王妃としてではなく、わたしとして息をする時間があったからだ。
ただ、その時間の代償を、わたしはまだ正しく量れていなかった。




