第4話 王を守る自由主義者
1791年4月、サン=クルーへ向かう支度でざわめくチュイルリーの廊下に、私は国民衛兵の足音を聞いていた。王家の馬車は用意され、廷臣たちは落ち着いた顔を作ろうとして失敗している。窓の外では、民衆が門をふさぎ、王をパリから出すなと叫んでいた。
「司令官、門の前が増えています」
副官が低く言った。帽子を抱えた手に力が入っている。
「人数は」
「分かりません。ですが、増えています」
「衛兵は」
「動きません」
「命令してもか」
「命令を聞いても、門を開けようとしません」
私は窓の方へ歩いた。門の向こうでは、女たちが腕を組み、男たちが肩を寄せ合っている。怒号は一つの声ではなかった。恐れ、不信、怒り、飢え。いくつもの感情が重なって、王家の馬車を押し戻していた。
サン=クルー。ただの離宮への外出のはずだった。だが革命が進んだ後のフランスでは、王がどこへ行くかは国家の行き先そのものに見えてしまう。人々は王が逃げると思い、王家は自分たちが囚人になったと思う。どちらの恐れも、廊下の空気を硬くしていた。
「ラファイエット殿」
王が私を呼んだ。大柄な体に礼服をまとっているが、手袋をはめた指がわずかにこわばっていた。優しさと鈍さが同じ顔に並ぶ人だと、私は何度も思ってきた。民衆が彼を憎む時、その人間らしさまでまとめて踏みつける。それを見るのは、正直つらい。
「私は、行くことも許されないのか」
問いは静かだった。静かな問いほど、返事に逃げ場がない。
「陛下の外出は、法律上禁じられていません」
「ならば、なぜ門は開かない」
「民衆が、逃亡だと疑っています」
「逃亡ではない」
「承知しています」
「承知しているなら、通せばよい」
私はすぐには答えられなかった。王の言葉は筋が通っている。だが、門の外にいる者たちの恐れも、ただの乱暴な思い込みとは言い切れない。革命の中で一度生まれた疑いは、事実より速く走る。
「兵が、民衆に銃を向けられません」
王の眉が動いた。
「それは兵なのか」
胸の奥で息が止まった。そう問われると、答えは痛い。兵であり、市民でもある。だからこそ国民衛兵だ。だが、その二つが同じ方向を向かない時、司令官の命令は急に軽くなる。
「兵です。ですが、彼らもパリの人間です」
「ならば、余は市民の許しがなければ動けぬのか」
「今のフランスでは、陛下の一歩にも国がついて回ります」
王は黙った。沈黙が落ちた瞬間、廊下の奥で女の叫び声がした。
「王を出すな!」
「逃げる気だ!」
「パリに残れ!」
王妃が少し離れた場所から、こちらを見ていた。白い顔に、硬い光がある。美しい人だと言うだけなら簡単だ。だが今の彼女は、美しさよりも強く、警戒をまとっているように見えた。私を見る目には礼儀がある。信頼はない。
「あなたは、我々を守ると言った」
王妃の声は細く、鋭かった。
「守ります」
「なら、通しなさい」
「今、無理に進めば血が流れます」
「血を流さないために、私たちは閉じ込められるのですか」
その言葉に、私はすぐ返せなかった。閉じ込められる。王妃には、そう見えている。実際、門は閉じている。馬車は進まない。国民衛兵は道を開けない。
「これでも、私たちが自由だと言うのですか」
王妃の視線が動かない。私はその視線から逃げなかった。逃げれば、私は王家を守る者ではなく、ただの牢番になる。
怖かった。ここで王家を通せば、門の外で血が流れるかもしれない。通さなければ、王家は私を裏切り者として見るだろう。どちらを選んでも、私は誰かの敵になる。
私はゆっくり帽子を取り、頭を下げた。
「今、無理に進めば、王家の自由を示すどころか、王家と民衆の間にさらに深い溝を掘ります」
「それは、あなたの判断ですか」
王妃の声が冷えた。
「民衆の判断ですか」
「私の判断です」
言った瞬間、廊下のざわめきが遠くなった。強い言葉を言う前には迷いがある。言った後には、代償だけが残る。
王は顔を伏せた。王妃は何も言わなかった。ただ、手袋をはめた指が、扇を折るように握られていた。
私は自分が王を守る者なのか、王を止める者なのか分からなくなった。
******
6月の夜、ヴァレンヌからの知らせが届いた時、私は机の上の燭台を倒しかけた。チュイルリーの部屋には、湿った夜気と紙の匂いが残っていた。王家が逃げた。そう聞いた瞬間、部屋の空気が全部抜けたように感じた。
「もう一度言え」
私は報告に来た兵を見た。彼の頬には汗が光っている。
「王家が、チュイルリーを出ました」
「いつだ」
「夜半です」
「門番は」
「確認中です」
「確認中では足りない。誰が見た。誰が通した。誰が見なかったことにした」
声が強くなりすぎた。兵の肩が跳ねる。それを見て、私は息を抑えた。彼を責めても、馬車は戻らない。
副官が扉のそばに立っていた。
「司令官、追跡を出しますか」
「すぐに」
「どちらへ」
「すべての街道だ。北も東も押さえろ。報告が遅れた場所を洗え」
「議会へは」
「知らせる」
「議会では、あなたが見逃したのだと言う者も出るでしょう」
副官の声が少し小さくなった。気遣いのつもりだろう。だが、気遣われると、傷はかえって自分の形をはっきり見せる。
「言わせておけ」
「しかし、弁明しなければ事実になります」
「弁明だけで消える疑いなら、ここまで育っていない」
言ったが、胸の奥では言わせておけなかった。私は王を信じたいと思っていた。少なくとも、憲法の中に残れる王として。王が逃げたという事実は、その願いを後ろから刺した。
「司令官」
若い衛兵が、震える声で言った。
「我々は、何を守っていたのですか」
その問いに、私は一瞬だけ黙った。
王家を守っていた。憲法を守っていた。革命を守っていた。そう言えるはずだった。だが王が逃げた今、そのどれもが少しずつ壊れた器に見えた。
「まだ答えを変えるな」
「え?」
「守るものが壊れたように見える時ほど、すぐ別の言葉に飛びつくな」
若い衛兵は唇を結んだ。分かったのかどうかは分からない。私自身も、分かっているとは言い切れなかった。
王家が連れ戻される日、パリの通りは異様な静けさに包まれていた。叫ぶな、帽子を取るな、拍手するな。誰かがそう命じたかのように、人々は黙って馬車を見つめた。
沈黙は罵声より重い。石より冷たい。
馬車の窓から、王妃の顔が見えた。白く、硬い。彼女は私を見たのかもしれない。見なかったのかもしれない。私は判断できなかった。ただ、馬車の車輪が石畳を踏む音だけが、妙にはっきり耳に残った。
「裏切り者」
どこかで小さな声がした。
王へ向けられたのか。私へ向けられたのか。分からなかった。分からないことが、かえって答えのようだった。
「司令官」
副官が馬を寄せた。
「民衆は黙っています」
「黙っている時ほど、見ろ」
「怒鳴っている時よりもですか」
「怒鳴っている者は、まだ声の出口がある」
私は馬車を見た。窓の内側で、王家の影が揺れる。
「黙った怒りは、次にどこへ行くか分からない」
副官は返事をしなかった。通りの沈黙が、私たちの間にも入り込んでいた。
******
議会の外では、王をどう扱うかで声が割れていた。王を廃せ。裁け。許すな。そう叫ぶ声が、日ごとに強くなっていく。私はその怒りを軽蔑できなかった。逃亡は事実だ。民衆の疑いも当然だ。だが、王を一人の罪人として吊るし上げれば、憲法そのものが復讐の台に載せられる気がした。
「ラファイエット!」
若い急進派の男が、人垣を割って近づいてきた。上着は乱れ、目は血走り、唇の端が震えている。
「あなたはまだ王をかばうのか」
「王をかばうのではない」
「では何だ」
「憲法を守る」
「同じことだ!」
男の声に、周囲の視線が集まった。私は逃げられない場所に立たされたのだと感じた。
「違う」
「なら、なぜ王だけ特別に守る」
「特別に守るのではない。特別に憎ませないためだ」
「憎むなと言うのか。逃げた王を。民を裏切った王を」
「憎しみで裁けば、次は誰でも裁けるようになる」
「それが革命だ!」
「違う」
「何が違う!」
男が一歩近づいた。近すぎる。周囲の誰かが息をのむ。
怖くないわけではなかった。怒った群衆の近さは、戦場の銃口とは違う怖さがある。銃口は一点を向く。群衆の怒りは、空気そのものを変える。
だが、ここで黙れば、私はまた安全な沈黙に逃げる男になる。
私は息を吸い、顔を上げた。
「王も法の中に置く。民衆の怒りも法の中に置く。片方だけを外に出せば、次は全員が外へ押し流される」
「きれいごとだ」
「そうだ」
男が目を見開いた。
「認めるのか」
「認める」
「ならば捨てろ」
「捨てない」
「なぜだ!」
「きれいごとを全部捨てた政治は、ただの腕力になる」
男は舌打ちした。
「あなたは自由主義者ではない。王の番犬だ」
その言葉に、周囲がざわめいた。
胸が痛んだ。怒りより先に、痛みが来た。民衆の味方でありたいと思ってきた。だが、民衆の怒りを止めようとした瞬間、私は民衆の敵に見える。
「そう見えるなら、今はそう呼べ」
「否定しないのか」
「呼び名を争っている間に、広場はもっと熱くなる」
男は私をにらみつけ、やがて背を向けた。勝ったとは思えなかった。むしろ、言葉が相手に届かなかった音だけが残った。
副官がそっと近づいてきた。
「追いませんか」
「追って何をする」
「説得を」
「今の彼は、私の言葉を聞くために来たのではない」
「では、何のために」
「私を名指しで敵にするためだ」
言ってから、私は自分の声がひどく疲れていることに気づいた。
敵。
その言葉は便利だ。相手を一つの形に固めてしまえば、もう迷わなくて済む。だが私は、その便利さを恐れていた。
******
夜、私はチュイルリーの廊下を一人で歩いた。サン=クルーへ行けなかった日のざわめきも、ヴァレンヌから戻った馬車の沈黙も、同じ石壁に染み込んでいるようだった。革命の建物は、毎日少しずつ音を変える。昨日の歓声が、今日は疑いになる。
廊下の角に、年老いた衛兵が立っていた。国民衛兵の制服を着ているが、姿勢だけは前の時代から置き忘れられた家具のように古い。白い眉の下で、目だけがまだよく動いていた。
「眠れませんか、将軍」
「君こそ」
「昔は、王宮の夜は静かなものでした。静かすぎて退屈なくらいで」
彼は窓の外を見た。門の向こうでは、夜でも人影が動いている。
「今は、眠っている方が怖い。起きた時に国が別の形になっていそうで」
私は返事に迷った。彼の言葉は大げさではなかった。この数年で、フランスは何度も朝を迎えるたび姿を変えた。三部会が国民議会になり、要塞が落ち、王家がパリへ移り、王が逃げ、戻った。次は何が変わるのか、誰にも分からない。
「変わらなければ、持たなかったものもある」
「ええ。ですが、変わりすぎても人は持ちません」
老衛兵は銃の帯を直した。私は彼の手の節を見た。若い急進派の演説には出てこない手だ。古い秩序の中で働き、新しい秩序の中でも立ち続ける手。革命は王と民衆だけでできているわけではない。こういう無数の手が、毎日こぼれ落ちそうなものを支えている。
「将軍は、どちらへ行かれるのです」
「広場へ」
「王のために?」
「王だけではない」
「では、民衆のために?」
「民衆だけでもない」
老衛兵は小さく笑った。ばかにした笑いではなかった。疲れた人間が、疲れた答えを聞いた時の笑いだった。
「それは、たいへんですな」
「笑うところでしょうか」
「いいえ。持ち場に残る者の言葉です」
たいへん。その平凡な言葉が、この数年で聞いたどんな政治用語より正確に思えた。
王の居室の近くで足を止めると、扉の向こうから低い話し声が聞こえた。内容までは分からない。分からない方がよかったのかもしれない。人は知らないまま信じることができる。知ってしまうと、信じるにも理由が必要になる。
私は自分の手を見た。新大陸で握った剣。バスティーユの後に掲げた帽章。ヴェルサイユで王家を守った指示。その手が今は、王の自由を制限する命令書に触れている。
どこで間違えたのか。
そう考え、すぐに答えは出ないと分かった。おそらく、一つの間違いではない。正しいと思った小さな選択が積み重なり、今の場所へ私を運んだ。
「司令官」
副官が廊下の端から近づいてきた。顔に疲れが濃い。
「シャン・ド・マルスで、王の廃位を求める署名が集められています」
私は目を閉じた。
ついに来たか、と思った。王の逃亡は、民衆の怒りに言葉を与えた。言葉を得た怒りは、広場を求める。広場は人を増やし、人は声を大きくする。
「人数は」
「増えています」
「市当局は」
「秩序維持を求めるでしょう」
秩序維持。その言葉が廊下の石に落ちて、冷たく響いた。
王を守る自由主義者。そう呼ばれる私は、次に民衆の広場へ向かわなければならない。民衆のための革命で、民衆を止めるために。
「将軍」
老衛兵が静かに言った。
「広場にいる者たちは、敵ですか」
私はすぐには答えなかった。
敵なら倒せばいい。反乱なら鎮めればいい。だが、そこにいるのは同じ国の人々だ。王を憎み、私を疑い、それでも自由という言葉を手放せずに集まった人々だ。
胸の奥に、弱い声があった。行きたくない。誰か別の者が決めてくれればいい。だが、その誰かがもっと乱暴な命令を出すかもしれないことを、私は知っている。知っている以上、逃げることは、自分の手を汚さないために他人の手を汚させるのと同じだ。
逃げなければ正しいわけでもない。そこが一番厄介だった。
私は息を吸い、顔を上げた。
「衛兵を集めろ。だが、銃を軽く扱うな。広場にいるのは敵ではない」
「では、何です」
副官の問いは小さかった。
「同じ国の、怒った人々だ」
「同じ国なら、話せますか」
「話せるうちに向かう」
「話せなくなった時は」
私は廊下の先を見た。燭台の火が揺れている。遠くで、誰かが王家の扉を閉める音がした。
「その時のために、兵を連れていく」
言ってから、その答えがどれほど難しいかを思い知った。同じ国の人々を倒した瞬間、自分の国を傷つける。だが、止めなければ、別の誰かが傷つくかもしれない。
自由と秩序は同じ広場に立てるのか。
問いはもう議場の中にない。次は本当に、広場で答えを求められる。




