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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ラファイエット

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第3話 国民衛兵の剣

 1789年10月の深夜、ヴェルサイユの王宮へ続く控えの間で、私は濡れた外套の水を床に落としていた。パリから歩いてきた国民衛兵の靴音が、廊下の奥でまだざわついている。女たちの怒号、兵の息、王宮の扉を守る衛兵の硬い視線が、同じ空気の中でぶつかっていた。


「司令官、群衆はまだ引きません」


 副官の声はかすれていた。帽子には雨がしみ込み、羽根が重く垂れている。


「引かないだろう」


「なぜです」


「腹が空いている者は、言葉だけでは眠れない」


 副官は唇を結んだ。納得した顔ではない。納得したくても、納得すれば次に何を命じればいいのか分からなくなる顔だった。


「ですが、宮殿へなだれ込ませるわけにはいきません」


「分かっている」


「では、どちらを先に止めますか。パンを求める女たちですか。王宮を守る近衛ですか」


 その問いは、雨より冷たく胸に入った。


 パンを求める声は正しい。王家を襲わせてはならないという判断も正しい。正しさ同士が向かい合うと、間に立つ者だけが悪人に見える。


 私は剣帯に触れ、息を整えた。


「血が流れる方だ」


「それは、答えになっていますか」


「今夜は、それ以上の答えを持てない」


 副官は何か言いかけて、やめた。私もそれを責められなかった。国民衛兵司令官。そう呼ばれるたび、肩に置かれる手が増えた気がする。パリ市民は私に自由の剣を期待し、王宮は秩序の盾を期待した。剣と盾なら両手で持てる。だが、同じ瞬間に別々の方向へ引かれれば、身体は簡単に裂ける。


 控えの間の扉が開き、廷臣の一人が顔を出した。白いかつらは乱れ、唇の色が悪い。


「侯爵、陛下は安全なのですか」


「私の兵が守っています」


「あなたの兵?」


 廷臣は廊下の奥へ視線を投げた。


「あれは民衆ではありませんか」


 胸の奥で火が跳ねた。だが、怒鳴れば終わりだ。王宮の人々は恐れている。恐れる者は、自分を守る壁の外にいるすべてを敵と呼びたがる。


「民衆です。だからこそ、隊列に置く必要がある」


「民衆に銃を持たせて、陛下を守ると?」


「銃を持たない民衆が、必ず穏やかだとは限りません」


「では、あなたは彼らを信じていないのですか」


「信じています」


 私は短く答えた。


「だから、命令するのです」


 廷臣の目が細くなった。理解したというより、理解することを拒む目だった。


「奇妙なお方だ。民衆の味方だと聞いていたのに」


「味方です」


「ならば、なぜ王宮を守る」


「民衆の名で王宮を血で汚せば、その民衆まで傷つくからです」


 廷臣は答えず、扉の陰へ引っ込んだ。私はその背中を追わなかった。追えば説明したくなる。説明は時に、自分を正しく見せたい欲に変わる。今はそれより、廊下の角で増えていく足音を数える方が先だった。


 ******


 少し前、パリ市庁舎で三色の帽章を帽子につけた時、人々は歓声を上げた。青と赤はパリの色、白は王の色。三つを合わせれば、新しいフランスが見える。そう言えば、誰もが少し明るい顔をした。


「うまい象徴ですな、侯爵」


 市庁舎の男が笑った。


「象徴だけなら、いくらでも作れます」


 私は帽章を指で押さえた。小さな布なのに、妙に重かった。


「問題は、それをつけた人間が同じ通りを歩けるかです」


「三色をつければ、皆が同じ顔になりますか」


「いいえ」


「では、何が変わるのです」


「同じ列に並ぶ理由ができる」


 若い隊長が、そこへ口を挟んだ。まだ頬に少年らしさが残っているが、腰の銃だけは妙に大きく見えた。


「同じ列に並ぶだけで、自由になるのですか」


「ならない」


「では、なぜ訓練を?」


「自由を守るためだ」


「自由なのに、命令に従うのですか」


 彼の問いはまっすぐだった。まっすぐすぎて、刃のようだった。


「自由は、好き勝手に振る舞うことではない」


「そう言うと、民衆はまた黙れと言われたように聞こえます」


「だから、命令する側も変わらなければならない」


「司令官も?」


「私もだ」


 若い隊長は帽章を見下ろした。青、赤、白。布の色は明るい。だが、その下にいる人間の心まで簡単には染まらない。


「我々は民衆を守るのですか」


「守る」


「それとも、民衆から王を守るのですか」


「それもする」


 隊長は顔を上げた。


「それは便利な答えです」


「便利ではない」


 私は彼の目を見た。


「面倒な答えだ」


 隊長は一瞬きょとんとし、それから苦笑した。私も笑った。だが、その笑いは短かった。どちらも守ると言う者は、やがてどちらからも疑われる。私はその未来を、すでに靴音の中に聞いていた。


 街の角では、武器を持った男がパン屋をにらんでいた。別の通りでは、貴族の馬車に石が投げられていた。革命は歌だけでは進まない。歌の横には、いつも空腹と噂が歩いている。


「司令官!」


 別の兵が駆け込んできた。


「サン=トノレの通りで、銃を見せびらかす者がいます」


「隊から外せ」


「ですが、彼は昨日まで一番大きな声で自由を叫んでいました」


「声の大きさで銃を預けるな」


 兵は息をのんだ。周囲の何人かがこちらを見た。


 強いことを言う前に、私は少しだけ迷った。自由を叫ぶ者から銃を取り上げる。それは、私が最も嫌われる命令の一つになる。だが、ここで目をそらせば、自由の名を借りた乱暴を私が許したことになる。


 私は帽章を押さえていた手を下ろした。


「銃を持つ者は、民衆の怒りではなく、民衆の命を預かる。分からない者には持たせるな」


「はい、司令官」


 兵は走っていった。背中が少し硬かった。私の命令に従ったのか、私に失望したのかは分からない。


 そして今、その面倒な答えがヴェルサイユの廊下に来ている。パリの女たちは雨に濡れ、王にパンを求めて叫ぶ。国民衛兵は彼女たちと同じ街から来た。だが、彼らは今、王宮の扉の前で銃を持っている。


 ******


 深夜の廊下で、私は兵の交代を命じていた。石床に水の跡が伸び、壁にかかった絵の中の王族たちが、黙ってこちらを見下ろしているようだった。


「司令官、兵が眠りかけています」


「立たせろ。交代を早める」


「外の群衆から、王妃の部屋へ向かうという噂が出ています」


「噂は誰からだ」


「分かりません」


「分からない噂ほど速い」


 私は外套をつかみ、廊下へ出た。革命で一番足の速い兵士は、いつも噂だ。姿はないのに、誰より早く門を越える。


 角を曲がると、女が一人、兵に食ってかかっていた。頬はこけ、腕には小さな子どもを抱いている。濡れた髪が頬に張りつき、目だけが強く光っていた。


「王は食べているんでしょう!」


 女の声が廊下に響いた。


「あたしたちは何を食べればいいの!」


 兵は銃を抱えたまま固まっていた。私は近づき、女の目の高さに合わせて少し身をかがめた。彼女の内側は分からない。だが、指が子どもの背を強くつかんでいるのは見えた。


「パンを求める声は届けます」


「届ける?」


 女は笑った。笑いというより、乾いた息だった。


「届くまでに、この子の腹はふくれるの?」


 言い返せなかった。言い返せる者がいたら、その者は飢えを知らない。


「今ここで扉を破れば、返ってくるのはパンではなく血です」


「血でもいいと思う者はいるよ」


「それでも、私は止めます」


「あんたも腹を空かせた子を見て、それが言えるの」


 私は子どもを見た。泣く力も薄いのか、小さく喉を鳴らしているだけだった。胸が痛んだ。痛むからといって、道を開けるわけにはいかない。痛みで判断を曲げれば、別の誰かの血で埋め合わせることになる。


 私は剣帯に触れる手を下ろした。


「見ているから言うのです。血はパンに変わりません」


 女の唇が震えた。


「きれいな言葉だね、侯爵さま」


「きれいなだけなら、私を恨んでください」


「もう恨んでるよ」


 その言葉は、予想していたより深く刺さった。女は子どもを抱き直し、廊下の奥へ戻っていった。勝ったとは思えなかった。むしろ、何かを少し失った気がした。


 隣にいた若い国民衛兵が、銃床を抱え直した。さっきまで女の言葉に目を伏せていたが、私が振り返ると小さく尋ねた。


「司令官、我々はあの人たちを裏切っているのでしょうか」


 彼はパリのパン屋の息子だと聞いている。門の外にいる者たちは、彼にとって客であり、隣人であり、祭りの日に同じ歌を歌った相手でもある。その彼に王宮の扉を守らせる。革命は、時に人を自分の町に向けて立たせる。


「裏切らないために、ここに立っている」


「本当にそうですか」


「そうでなければ、私はここにいない」


「もし、あの人たちが押し入ったら」


「止める」


「撃ちますか」


 問いが冷たく落ちた。私はすぐには答えられなかった。彼は答えを欲しがる顔をしていない。答えが来ないことを恐れる顔をしていた。


「撃つ前に、できることを全部する」


「全部した後は?」


 廊下の奥で、群衆の声が低くうねった。私はその声を聞きながら、剣の柄に触れた。抜くためではない。そこにあることを確かめるためだ。新大陸で覚えたことがある。剣は抜いた瞬間より、抜くか抜かないか迷う瞬間の方が重い。


 私は兵の顔を見た。


「その時は、私が命令する」


 彼の肩が小さく沈んだ。責任を預けられて安心したのか、私に失望したのかは分からない。命令する者がいるというだけで、人は少し安心する。だが、命令する者の内側に穴が空いていないとは限らない。


 ******


 夜明け前、王宮の内部で悲鳴が上がった。眠気は一瞬で消えた。私は走った。廊下の角を曲がるたび、燭台の火が揺れ、兵が道を開ける。王妃の部屋の方角から、金属のぶつかる音と怒号が混じって聞こえた。


「遅いぞ!」


 誰かが叫んだ。私に向けた声か、時代そのものに向けた声か分からなかった。


 近衛の死体が床に倒れていた。白い制服が赤く汚れている。私は一瞬だけ足を止めた。その一瞬で、血の匂いが肺に入った。新大陸の戦場と同じ匂いなのに、ここではひどく場違いだった。宮殿の床に流れる血は、壁の金飾りを急に薄っぺらく見せる。


「司令官、どうします!」


 副官が叫んだ。


 怖かった。間に合わなかったものを、命令だけで取り戻すことはできない。だが、ここで私が迷いを見せれば、迷いは兵に伝わり、兵の迷いは廊下を開ける。


 私は息を吸い、顔を上げた。


「部屋を固めろ! 通路をふさげ! 銃を上げるな、まず押し返せ!」


「撃たせませんか!」


「まだ撃つな!」


「押し返せなければ!」


「その時は、私を見るんだ!」


 命令が自分の口から出ていく。迷いはあった。恐れもあった。だが、命令の形にしなければ、人は動けない。私はそのことを知っている。知っている自分が、少し嫌だった。


 やがて王妃は逃れ、王も姿を見せた。群衆の声が窓の外でうねる。王家をバルコニーへ出せという声が上がった時、廷臣たちの顔から血の気が引いた。


「危険です」


 廷臣が私の袖をつかんだ。


「王妃まで群衆の前に出すのですか」


「出なければ、もっと危険になる」


「群衆は王妃を憎んでいます」


「隠せば、群衆はもっと恐ろしい王妃を想像します」


「あなたは王家を守るのですか。それとも群衆を満足させるのですか」


 私は一瞬だけ黙った。


 どちらの側の人間なのか。昨日から何度も突きつけられた問いだった。王を守るために民衆の前へ出す。民衆を鎮めるために王を見せる。どちらも正しく、どちらも残酷だった。


「どちらも失わせないためです」


 廷臣の手が袖から離れた。


 バルコニーへ出た王に向けて、広場から声が上がる。怒り、歓声、命令、祈り。全部が混じり合い、一つの巨大な息になっていた。私は王妃のそばへ進み、帽子を取って頭を下げた。瞬間、広場の音が変わった。罵声の中に拍手が混じる。


 その拍手を聞いた時、私は救われたのではなく、縛られた。


 民衆は私に、王家を従わせる者であることを求めている。王家は私に、民衆を抑える者であることを求めている。どちらも私を必要としているが、どちらも私そのものを見てはいない。


「司令官」


 副官が近づいた。


「王家はパリへ向かうことになりました」


「そうか」


「群衆は喜んでいます」


「喜びだけではないだろう」


 窓の外を見ると、広場は人で埋まっていた。帽子が振られ、拳が上がり、子どもが肩車でこちらを見ている。歓声の中に、まだ怒りが混じっていた。


「我々が護衛しますか」


「他に誰がいる」


「民衆の前で、王家の馬車を守るのですね」


「そうだ」


「民衆のための国民衛兵が」


「民衆の前にも立つ」


 副官は黙った。彼の濡れた帽子から、水が一滴落ちた。


 ******


 朝、パリへ向かう道で、私は王家の馬車の横を歩いていた。馬車の周りを人々が取り囲み、国民衛兵は隊列を作っている。道の両側から、帽子が振られ、罵声が飛び、子どもが肩車でこちらを見ていた。


「パンを忘れるな!」


 女の声が飛んだ。


「王をパリへ!」


「ラファイエット万歳!」


「貴族のくせに!」


 拍手と敵意が、同じ道の両側から聞こえていた。どちらか一つなら、まだ歩きやすかったかもしれない。だが、二つが混じると、自分の足音まで疑わしくなる。


 車列の途中で、老人が帽子を胸に当てて頭を下げた。王に向けたのか、私に向けたのか、それとも昨日までのフランスに向けたのか分からない。すぐ隣では若者が拳を突き上げている。同じ道に、敬意と怒りが並んでいた。私はその二つを無理に一つの意味へまとめることをやめた。まとめた瞬間、どちらかを見落とす。


「司令官、これで秩序は戻りますか」


 副官が小声で尋ねた。


 私は答えに詰まった。戻る、とはどこへ戻ることなのか。バスティーユの前か。三部会の前か。新大陸へ行く前の私か。戻れる場所など、もうどこにもない。


「戻すのではない」


「では?」


「崩れない道を探す」


「見つかりますか」


 私は前を見た。パリへ続く道は人で埋まり、馬車の車輪が泥を跳ね上げている。


 分からない、と言えば正直だった。見つかる、と言えば兵は少し安心するかもしれない。だが、安心のためだけに嘘を置けば、その嘘はいつか命令を腐らせる。


 私は短く答えた。


「見つけるしかない」


 副官は黙った。私もそれ以上は言わなかった。強い言葉のあとには、余計な説明をつけない方がいい。説明を重ねるほど、言葉は自分を疑い始める。


 国民衛兵の剣は、民衆のために抜かれるはずだった。


 だが今、その剣は民衆の前にも置かれている。


 私はその重さを腰に感じながら、パリへ向かう馬車の横を歩いた。自由と秩序は同じ広場に立てるのか。その問いは、歓声よりも罵声よりも長く、私の中で鳴り続けていた。

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