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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
マリーアントワネット

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第3話 国境で脱がされた名前

 1770年4月、わたしはウィーンを出る馬車の中で、手袋の上から自分の指を握っていた。


 窓の外では、見慣れた石畳がゆっくり後ろへ流れていく。わたしはマリア・アントーニア。けれど、その名で呼ばれる時間はもう残り少ない。母の宮廷を離れた瞬間から、わたしはフランスへ渡される花嫁として進み始めていた。


 泣かない、と決めていた。


 泣けば馬車が止まるわけではない。誰かが「やはりまだ子どもです」と言ってくれるわけでもない。涙は、わたしの役目を軽くしてはくれない。だからわたしは、目の奥が熱くなるたび、窓の外へ顔を向けた。


 道は長かった。


 宿に着くたび、人々は花嫁を見る顔をした。美しい衣装、整えられた髪、従者の列。わたしがどれほど胸の内を騒がせていても、外から見れば立派な行列だ。人は中身より先に形を見る。わたしはそのことを、もう何度も母から教えられていた。


「殿下、お疲れではございませんか」


 侍女が低く尋ねた。


「疲れたと言えば、道は短くなるの?」


「なりません」


「なら、少しだけ疲れていないことにするわ」


 侍女は困ったように笑った。その小さな笑いに、ウィーンの部屋の空気が一瞬だけ戻ってきた気がした。けれど次の揺れで、馬車はまた先へ進む。


 昨日までのわたしは、出発の日を怖がっていた。


 けれど出発してしまえば、本当に怖いのは止まれないことだった。


 ******


 1770年5月、国境の引き渡しの館で、わたしは自分が物のように丁寧に扱われることを知った。


 そこは奇妙な場所だった。オーストリアでもなく、まだフランスでもない。部屋は美しく整えられ、儀礼に必要なものはすべて揃っていた。けれど、どこにも家の匂いがない。誰のものでもない空間で、わたしだけがはっきりと移されるものだった。


「こちらでお召し替えを」


 そう言われた時、意味は分かっていた。


 それでも、胸の奥が冷えた。


 わたしの衣服、髪飾り、身の回りの品々。オーストリアから持ってきたものが、ひとつずつ外されていく。布が肩から離れるたび、指輪が外されるたび、わたしの身体からウィーンの空気が剥がされていくようだった。


 服を替えるだけのことだ。


 そう思おうとした。


 でも、違った。


 これは所属を替える儀式だった。


 手を伸ばせば、まだ知っている侍女の顔がある。けれどその人たちは、これから先のわたしについて来ない。彼女たちは国境のこちら側に残る。わたしだけが、向こう側へ渡る。


「アントーニア様」


 小さな声で呼ばれて、わたしは振り向いた。


 その呼び名が、急に遠く聞こえた。


「泣かないで」


 わたしは言った。相手に向けたつもりだったけれど、たぶん自分に言ったのだと思う。


 侍女は唇を噛んだ。


 わたしは新しい衣装へ袖を通した。フランス式の布は美しく、軽やかで、よく考えられている。けれど肌に触れた瞬間、知らない水に入ったみたいに息が止まった。


 鏡の中には、わたしがいた。


 でも、さっきまでのわたしではなかった。


 ******


 国境を越えたあとのフランス側の道で、わたしは初めて自分の新しい名を聞いた。


「マリー・アントワネット殿下」


 呼ばれた瞬間、返事が少し遅れた。


 わたしのことだと分かっている。分かっているのに、その名はまだわたしの内側まで届いてこなかった。マリア・アントーニアなら、胸の奥で振り返れる。けれどマリー・アントワネットは、扉の外から丁寧に呼ばれているような気がした。


「はい」


 遅れて答えると、フランス側の女官が微笑んだ。


 その笑みは礼儀正しく、美しかった。だからこそ、何を考えているのか分からない。歓迎なのか、値踏みなのか、ただの作法なのか。わたしはその全部を同時に受け取らなければならなかった。


 フランス語が耳に増えていく。


 発音を直され続けた言葉が、今は周りの空気そのものになっている。意味は分かる。けれど、言葉の速度に心が追いつかない。誰かが笑う。誰かが頷く。誰かがわたしの衣装を褒める。そのたび、わたしは正しい顔を探した。


「美しいお召し物ですこと」


「ありがとうございます」


 短く返す。


 軽すぎず、硬すぎず。母ならそう言うだろう。わたしはフランスへ来たばかりなのに、母の声を背中で聞いていた。


 その夜、宿の部屋でひとりになると、わたしは手袋を外した。


 指先が少し赤くなっていた。強く握りしめていたせいだ。誰も見ていないのを確かめてから、わたしは自分の名を小さく呼んだ。


 マリア・アントーニア。


 胸が痛んだ。


 マリー・アントワネット。


 今度は、胸の奥が少し固くなった。


 2つの名前の間に、国境がある。わたしはその真ん中に立っている。


 ******


 国境を越えた夜、フランス側の宿で、わたしは初めてフランスの食卓に座った。


 食器の置き方も、給仕の間も、ウィーンと少しずつ違う。大きく違うわけではない。だからこそ、余計に気になる。少し違う礼、少し違う沈黙、少し違う笑い方。わたしは一つひとつを間違えないように見ていた。見る側だったはずのわたしは、もう完全に見られる側になっている。


「お口に合いますでしょうか」


 女官が尋ねた。


「ええ、とても」


 答えながら、味がよく分からなかった。


 緊張していると、人は舌まで遠くなるらしい。香辛料の匂い、温かい皿、柔らかいパン。全部が目の前にあるのに、心はまだ国境の部屋に残っていた。脱がされた衣装、泣きそうな侍女、鏡の中の知らないわたし。


 わたしは水を飲んだ。


 杯を置く音が小さく響く。


 その音にさえ、誰かが意味を見つけるのではないかと思った。


 ウィーンで母に言われた「見られている」は、ここではもっと細かい刃になっていた。何を食べたか。どれほど笑ったか。疲れを見せたか。フランス語を間違えたか。すべてが、王太子妃になる娘の評判へつながっていく。


 食卓を終えたあと、わたしは部屋の窓を少し開けた。


 夜の空気は冷たかった。けれど、その冷たさだけはウィーンと似ていた。国境を越えても、夜は同じように肌へ触れる。そのことに少しだけ救われた。


 わたしは小さく息を吐いた。


 フランスは、まだ知らない国だった。


 でもその知らない国は、もうわたしの内側へ入り始めていた。


 ******


 ヴェルサイユへ向かうフランスの道で、わたしはまだ夫になる人の顔を知らなかった。


 ルイ=オーギュスト。そう呼ばれる少年の名だけが、先にわたしの未来へ置かれている。どんな声なのか、どんな手なのか、笑う時に目を細めるのか。何も知らない。けれど、わたしはもうその人の妻になる。


 馬車の揺れに合わせて、衣装の布が膝の上でかすかに音を立てた。


 わたしは窓の外を見た。知らない村、知らない道、知らない人々。けれど、こちらを見る視線だけはよく知っている。珍しいものを見る目。期待する目。失敗を待つ目。母が言った「見られている」は、国境を越えても消えなかった。むしろ、ここからが本番なのだと分かった。


「殿下」


 フランスの女官が声をかけた。


「もうすぐでございます」


 何がもうすぐなのか、聞くまでもなかった。


 新しい宮廷。新しい夫。新しい名前。


 そして、新しい檻。


 わたしは背筋を伸ばした。怖さは消えない。けれど、怖さに飲まれた顔を最初に見せるわけにはいかない。わたしは母の娘で、オーストリアから来た花嫁で、これからフランスで笑わなければならない。


 だから、息を吸った。


 名前を替えられても、衣装を替えられても、わたしの足で進むしかない。


 マリー・アントワネット。


 その名で初めて、わたしはフランスの空を見上げた。


 空は広かった。


 それなのに、わたしの進む道だけはもう決まっていた。


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