第2話 フランスという名前が近づく日
1766年ごろ、ウィーンの宮廷で、フランス語の発音を直される回数が急に増えた。
わたしはマリア・アントーニア。ハプスブルク家の末娘で、音楽と踊りが好きで、できれば難しい政治の話からは少し離れていたい少女だった。けれどそのころから、わたしの周りの大人たちは、わたしをただの末娘として見なくなった。
朝の稽古で、先生はわたしの口元をじっと見ていた。
「もう一度。舌の位置が違います」
「またですか」
「またです」
短い返事だった。そこに同情はない。先生の指先が譜面台ではなく、フランス語の書き取りを示す。音楽なら、少しくらい間違えても笑ってやり直せた。けれど言葉は違う。発音の癖ひとつまで、わたしがどこから来た娘なのかを告げ口するらしい。
フランス。
その名前は、少し前まで大人たちの書類と会議の中にあるものだった。けれど今は、わたしの舌の上に乗ってくる。喉に引っかかり、唇の形を直され、笑い方の角度にまで入り込んでくる。
「そんなに大事な発音なのですか」
わたしが尋ねると、先生は困ったように視線を下げた。
「殿下が、あちらで笑われぬためです」
「わたしが笑うのではなく?」
「笑われぬためです」
その言い方が、妙に胸に残った。
フランスは、わたしが笑いに行く場所ではない。
笑われないように整えられて行く場所なのだ。
稽古は発音だけでは終わらなかった。扇を開く速さ、歩く時の足幅、相手の身分に合わせた視線の高さ。先生たちは、まるでわたしを少しずつ分解して、フランス宮廷に合う形へ組み直しているようだった。昨日まで自然にできていた笑い方まで、今日は少し直される。
「もう少し控えめに」
そう言われるたび、わたしは唇を閉じる。
控えめに笑うとは、どれくらい笑うことなのだろう。楽しい時に楽しい顔をしてはいけないのなら、その楽しさはどこへ置けばいいのだろう。答えを聞いても、先生は困るだけだと分かっていた。だから聞かなかった。聞かない代わりに、胸の中でだけ少しむくれた。
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同じころ、ウィーンの母の執務室は、わたしにとって音楽の部屋よりずっと遠い場所だった。
扉の前に立つだけで、紙と蝋とインクの匂いがする。中へ入ると、母は書類の前に座っていた。黒の装いは父の死からずっと母の一部になっていて、その色を見るたび、わたしは胸の奥を少し正される。
「アントーニア」
「はい、母上」
「フランス語の稽古を嫌がっているそうですね」
「嫌がっているわけではありません。ただ、何度も同じところを直されるので」
「直されるうちが、まだ幸運です」
母は顔を上げた。
その目を見ると、こちらの小さな不満が急に子どもじみて見える。けれど、わたしはもう子どもでいたいだけでは済まない年齢になりつつあった。だからこそ、言葉を飲み込むのが少し悔しかった。
「なぜ、そこまでフランスを意識しなくてはならないのですか」
聞いてしまった。
母の目は揺れなかった。
「おまえが、見られる娘だからです」
前にも聞いたような言葉だった。けれど、その日は前より重く聞こえた。
「誰に、ですか」
「フランスに。オーストリアに。宮廷に。いずれは民にも」
母はひとつずつ置くように言った。
「王侯の娘は、自分だけのためには立てません。笑顔も、沈黙も、親しさも、拒絶も、すべて意味を持ちます」
「では、わたしは何を好きになればいいのですか」
その言葉は、少し幼かったと思う。
母は答えるまでに、わずかに間を置いた。
「好き嫌いより先に、守るべきものを覚えなさい」
慰めではなかった。
でも、突き放す言葉でもなかった。母はきっと、こういう形でしか娘を育てられないのだ。抱きしめて不安を消すのではなく、背筋を伸ばす理由を与える。母の愛情は、いつだって命令の形をしていた。
部屋を出る時、扉の金具が指先に冷たかった。
フランスという名前は、もう書類の中だけにない。
わたしの笑顔の中にまで、入ってきていた。
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1767年、わたしのいるウィーンの宮廷に、天然痘の影が落ちた。
病というものは、身分に礼をしない。豪華な寝室も、分厚い扉も、清められた廊下も、病の前ではあまり役に立たないらしい。母が病に伏したと聞いた時、わたしは宮廷全体が息を止める音を聞いた気がした。
それだけではない。
姉もまた、病に奪われた。
昨日まで席があった場所に、今日は沈黙がある。声があったはずの部屋に、布の匂いだけが残る。人は死ぬのだと、そんな当たり前のことを、わたしはそこでまた思い知らされた。
姫君でも死ぬ。
愛されていても死ぬ。
役目があっても、未来が決まっていても、病はそんなことを待ってくれない。
「大丈夫でございます」
侍女はそう言った。
「何が?」
つい聞き返すと、侍女は言葉に詰まった。
責めたいわけではなかった。ただ、本当に分からなかったのだ。母が倒れ、姉がいなくなり、宮廷が喪と恐れの匂いで満ちている。それでも人は、同じ言葉を口にする。
大丈夫。
その言葉は、何も変えないのに。
それでも、わたしは翌日には稽古へ戻された。フランス語、礼法、音楽、作法。前よりも厳しく、前よりも細かく。誰かが欠けるたび、残された者の価値が変わる。ハプスブルク家の娘は、悲しみの中でも並べ直される。
そのとき、はっきり分かった。
わたしは愛されている。
でも同時に、数えられている。
その2つは、宮廷では平気で同じ皿に乗るのだ。
だから、フランス語の稽古が増えた理由も、母の視線が厳しくなった理由も、少しずつ分かってきた。わたしは誰かの妹で、誰かの娘で、同時に、どこかの国へ渡されるかもしれない札だった。
そしてその札には、もう行き先が書かれ始めていた。
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1770年の春、ウィーンの宮廷では、もう誰も遠回しに言わなくなっていた。
わたしがフランスへ行く。
母の娘としてではなく、フランス王太子ルイ=オーギュストの花嫁として。
その名を初めてはっきり聞いた時、わたしは少し不思議な気持ちになった。ルイ=オーギュスト。まだ会ったこともない少年。どんな声で話すのか、どんなふうに笑うのか、何を怖がるのか、何も知らない。それなのに、わたしの未来の真ん中には、もうその人の名が置かれている。
恋の話ではなかった。
国の話だった。
でも、その国の話を、わたしは自分の顔と名前で引き受けなければならない。
鏡の前で衣装を合わせられる時間が増えた。布は美しく、刺繍は細かく、宝石は冷たい。首飾りをつけられるたび、わたしは喉のあたりが少し重くなるのを感じた。美しくされればされるほど、わたし個人は遠くへ押し出されていく。
部屋には、箱が増えていった。手袋、靴、リボン、扇、旅に必要な細かな品々。ひとつひとつは美しいのに、並べられるほど胸が詰まる。準備とは不思議なものだ。未来へ向かって整えているはずなのに、わたしには、今いる場所から少しずつ剥がされているように感じられた。
侍女が布を畳む音を聞きながら、わたしは窓の外を見た。ウィーンの空はいつもどおりで、庭も壁も、昨日と同じ顔をしている。変わっていくのはわたしだけだ。まだここにいるのに、もうここを出る人として扱われている。
そのことが、いちばん落ち着かなかった。
「怖いの?」
姉のひとりが、そっと聞いた。
わたしは少し考えた。
怖い。
そう言ってしまえば、膝の震えまで本物になる気がした。だから笑った。いつものように。少しだけ上手に。
「怖いというより、忙しいの。怖がる時間まで予定に入っていなかったみたい」
姉は笑わなかった。
その代わり、わたしの手を握った。言葉よりも、その手のあたたかさのほうが危なかった。泣きそうになったからだ。
泣いてはいけない。
そう思った瞬間、母の声がした。
「アントーニア」
わたしは手を離し、振り返った。
母は黒の名残をどこかにまとったまま、まっすぐ立っていた。老けた、と思った。けれど弱くなったとは思わなかった。母は悲しみを身につけたまま、それでも国を動かす人だった。
「おまえは、ただ嫁ぐのではありません」
「はい」
「フランスへ行きなさい。そして、あちらの国で敬われる人になりなさい」
母の言葉は、いつも逃げ道をふさぐ。
けれど、その奥に信頼があることも、もう分かっていた。母はわたしを子どものまま抱きしめてはくれない。けれど、国の前に立てる娘として見ている。怖いほどに、まっすぐ。
わたしは息を吸った。
怖い。迷う。逃げたい。
でも、ここでそれを顔に出せば、わたしは自分の足で歩く前に、ただ運ばれる荷物になってしまう。
わたしは顔を上げた。
「母上。わたし、フランスで笑ってみせます」
短い言葉だった。
母の目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。気のせいかもしれない。けれどわたしは、その小さな揺れを見なかったふりで受け取った。
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1770年4月19日、ウィーンで代理結婚の式が行われた。
夫になる少年は、そこにいない。けれど式は厳かに進み、祈りの言葉は高い天井へ吸い込まれ、わたしの衣装はいつもより重かった。まだ会ったこともない人と結婚する。それを不思議だと思えるほど、わたしはもう子どもではなかった。王侯の婚姻では、人と人が先に結ばれるのではない。国と国が先に結ばれ、そのあとに若い男女が置かれるのだ。
式が終わると、祝福の言葉が次々に降ってきた。
美しい花嫁。オーストリアの希望。フランスの未来。
どれも華やかな言葉なのに、どれも少しずつ、わたし本人から遠い。わたしが呼ばれているのではなく、わたしに貼られた役目が褒められているようだった。
窓の外には、見慣れたウィーンの空があった。
石畳も、宮殿の壁も、音楽の聞こえる部屋も、明日から急に遠くなる。まだここにいるのに、もう半分はここにいない。そんな奇妙な感覚が胸の中で揺れていた。
マリア・アントーニア。
心の中で自分の名を呼ぶ。
呼べば、ちゃんと返ってくる。
でも次に呼ばれる名は違う。
マリー・アントワネット。
その名はまだ、わたしの肌になじんでいない。新しい手袋みたいに美しくて、少し硬くて、指を動かすたびにどこかが引きつる。
それでも、行くしかない。
母のため。国のため。まだ会ったことのない夫のため。そういう大きな言葉はいくつも用意されていた。けれど馬車へ向かう時、わたしの胸に一番強く残っていたのは、もっと小さな問いだった。
次に呼ばれるその名前で、わたしはちゃんと笑えるかしら。




