表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
マリーアントワネット

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/54

第1話 ウィーンの小さな大公女


 1755年11月2日、ウィーンの宮廷には、冬の気配と蝋燭の匂いがまじっていた。


 その夜、わたしはハプスブルク家の末娘として生まれた。名前はマリア・アントーニア。もちろん、生まれた瞬間のことを覚えているはずはない。けれど、あとから何度も聞かされたせいで、冷えた空気も、白い布も、祈りの声も、自分の記憶みたいに胸に残っている。


 兄も姉もたくさんいた。


 上から順に、みな立派で、みな期待され、みな母の視線に背筋を伸ばしていた。その一番下にいるというのは、案外悪くない。大事な席ではまず兄姉が呼ばれるし、出来のいい返事も、美しいお辞儀も、最初に求められるのはたいてい別の誰かだった。


 だからわたしは、少しだけ身軽だった。


 少しだけ、だけれど。


 朝の食卓では、その差がよく分かった。兄や姉たちは、母の問いに答える時、まるで細い糸の上を歩くように言葉を選ぶ。誰がどの国へ嫁ぐのか、誰がどの役目を持つのか、そういう話が大人たちの視線の端でいつも揺れていた。わたしは端の席でパンを小さくちぎりながら、その重さを半分も理解していなかった。ただ、姉の背筋がぴんと伸びるたび、わたしまで少しだけ肩を上げた。


 末の娘でいることは、守られていることに似ていた。


 でも、守られている場所にも、扉はある。いつか開く扉だとは知らないまま、わたしはその前で笑っていた。


 ******


 幼いころのわたしは、ウィーンの宮廷で音楽のするほうへよく逃げた。


 鍵盤の上に指を置くと、宮廷の硬い空気が少しやわらぐ。ハープの弦に触れると、細い音が胸の奥をくすぐる。踊りの稽古で足を間違えて侍女を困らせても、音が鳴っているあいだだけは、叱られるより先に体が動いてしまう。


「アントーニア、またここにいらしたのですか」


 侍女の声が扉のほうから飛んできた。


 わたしは鍵盤に置いた指を離さず、少しだけ首を傾けた。


「また、ではありません。今日は初めてです」


「本日初めて、という意味でございましょう」


「なら嘘ではないわ」


 そう答えると、侍女は困った顔をしながらも笑いをこらえた。わたしはその顔を見るのが好きだった。宮廷では、誰もがきちんとしすぎている。だから、ほんの少しでも誰かの表情がほどけると、それだけで勝ったような気分になった。


 部屋の外では、誰かの靴音が規則正しく遠ざかっていく。窓の向こうには、手入れされた庭と、冬に向かう空があった。宮殿は広い。けれど、子どもが自由に息をできる場所は、その広さほど多くない。わたしにとっては、音のある部屋がそのひとつだった。


 先生の前では、わたしも一応まじめな顔をする。譜面を追い、指を置き、音を外せばやり直す。けれど、音楽の失敗はまだ優しかった。間違えても、次の小節が来る。つまずいても、もう一度弾けばいい。宮廷の礼法はそうはいかない。お辞儀の角度を間違えれば、その瞬間を誰かが覚えている。笑い声が弾みすぎれば、あとで侍女がそっと困った顔をする。


 だからこそ、音楽は好きだった。


 音は、わたしを裁かない。美しく弾けた時だけ、ほんの少し褒めてくれる。


 フランスという国名は、このころのわたしには、まだ遠い物語の中の響きでしかなかった。


 わたしの世界は、鍵盤と廊下と、母に叱られるかどうかでほとんどできていた。


 ******


 幼いわたしがウィーンの宮廷でいちばん怖かったのは、怒鳴り声ではなかった。


 母が部屋に入ってくる瞬間だ。


 マリア・テレジア。わたしの母であり、オーストリアを背負う人。母のドレスが床をすべる音を聞くだけで、部屋にいた者たちは声の大きさまで変える。父は暖炉の火のようにやわらかく笑う人だったけれど、母は違う。母は窓から差しこむ冬の光みたいに、明るくて、まっすぐで、少し冷たかった。


「アントーニア」


「はい、母上」


「廊下を走っていたそうですね」


「走ってはいません」


 母の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「では、何をしていたのです」


「急いでいました」


 すぐそばで侍女が息を止める気配がした。自分でも、言ってから少しまずかったと思った。母は怒鳴らない。だから余計に怖い。静かな目でこちらを見るだけで、こちらの言い訳が勝手に小さくなっていく。


「急ぐことと、乱れることは違います」


「はい」


「笑うのはよいことです。けれど、見られていることを忘れてはなりません」


 見られている。


 そのころのわたしには、母の言葉の半分も分かっていなかったと思う。


 たしかに宮廷では、どこへ行っても人の目がある。けれど子どものわたしにとって、それはせいぜい、走るな、笑いすぎるな、裾を踏むな、と注意される程度のものだった。わたしが少し不作法をすれば、侍女が困り、先生が眉を寄せ、母が静かに叱る。それだけのことだと思っていた。


 けれど母の言い方は、それだけではなかった。


 見られているとは、行儀を直されることではない。


 その人間が、何に使えるかを測られることだ。


 もちろん、その時のわたしにそこまでは分からない。ただ、母の目を見ていると、わたしの笑い声や足音まで、何か大きな帳簿に書き込まれているような気がした。


 それが何の帳簿なのかを、わたしはまだ知らなかった。


 その日の夕食で、わたしはいつもより静かに椅子へ座った。銀の食器が小さく鳴り、燭台の火が皿の縁で揺れている。兄の返事は落ち着いていて、姉の微笑みはきれいだった。わたしも真似をして背筋を伸ばす。すると母が一瞬だけこちらを見た。褒められたわけではない。叱られたわけでもない。ただ、見られた。それだけで、口に入れたスープの温度まで分からなくなった。


 見られていると気づくと、人は急に自分の手の置き場まで分からなくなる。


 わたしはその夜、食卓の終わりまで笑いすぎないように気をつけた。気をつけた分だけ、笑うことが少し難しくなった。


 ******


 母の視線が少し怖かったぶん、ウィーンの宮廷で父のそばにいる時間は、わたしにとって逃げ場だった。


 フランツ1世。父は、立っているだけで人を黙らせる母とは違い、話しかける前からこちらの肩を軽くしてくれる人だった。大きな手でわたしの頭を撫で、難しい顔をしている大人たちの間でも、ふっと笑う。その笑いに触れると、宮廷が少しだけ家に戻る。


「また母上に叱られたのか」


 ある午後、父はそう言ってわたしを見た。わたしは返事をする前に、父の袖口についた糸くずを見つけて、そっとつまんだ。


「叱られたのではありません。正されました」


「それは大変だ。正されるのは叱られるより疲れる」


「父上もそう思いますか」


「もちろんだ」


 父がまじめな顔で頷いたので、わたしはつい笑ってしまった。


 母の前で笑いすぎると注意される。けれど父の前では、笑い声が少し大きくなっても、世界はすぐには壊れなかった。父はわたしに何かを背負わせるより先に、わたしが子どもでいる時間を許してくれた。


 その優しさが、どれほど貴重なものだったのか。


 失うまで、わたしは知らなかった。


 宮廷の中では、誰もが役目を持っている。母は統治者で、父は皇帝で、兄や姉は将来の縁組の先を背負っている。けれど父のそばにいる時だけ、わたしはただの末娘でいられた。失敗しても、未来の価値まで減らされる気がしなかった。


 だから、父が笑うと、わたしは安心した。


 明日も同じように笑えるのだと、勝手に思っていた。


 ******


 1765年、ウィーンの宮廷に、インスブルックで父が急に亡くなったという報せが届いた。


 祝いのための灯が、そのまま喪の灯になったような夜だった。人の笑い声が消えたあとの宮廷は、同じ建物とは思えないほど広く感じる。廊下の奥で布がこすれる音も、誰かが息をのむ気配も、やけにはっきり聞こえた。


 父がいなくなった。


 その事実は、言葉にするとあまりに短い。短いのに、胸の中ではどこまでも広がっていった。


 わたしは泣いた。たぶん、子どもらしく泣いたと思う。目も鼻も赤くして、声を整えることもできずに、ただ泣いた。父の袖口に糸くずを見つけて笑った午後が、急に遠くなった。昨日まであった逃げ場が、朝になると消えている。そんなことが本当に起きるのだと、わたしはそこで初めて知った。


 けれど宮廷は、泣く者に合わせて止まってはくれない。


 父を失った悲しみのすぐ横で、次の予定が組まれ、手紙が運ばれ、母は黒い喪服のまま政務を続けた。母の顔は、以前より深く刻まれたように見えた。けれど、弱くなったとは思わなかった。むしろ悲しみを着たぶんだけ、あの人はさらに母ではなく、国家そのものに近づいたように見えた。


「母上は、お休みにならないのですか」


 そう尋ねた時、母は一瞬だけわたしを見た。


「休んだからといって、失った者が戻るわけではありません」


「でも」


「悲しみは持っていきます。捨てるのではありません。持ったまま、立つのです」


 わたしは何も言えなかった。


 母は強い。そう思った。


 同時に、少し怖いとも思った。


 ハプスブルク家では、悲しみさえ役目の後ろに並ばされる。父を失った娘でいる時間と、将来どこかへ渡されるかもしれない娘として整えられる時間が、同じ1日の中に置かれる。誰もそれを残酷とは言わない。そういうものだと、皆が知っている顔をしている。


 その顔が、わたしにはいちばん怖かった。


 ******


 父の死のあとも、ウィーンの宮廷にはいつもどおり朝が来た。


 音楽の稽古も、礼法も、食卓の順番も、何ひとつ消えなかった。消えたのは父の声だけだ。宮廷というものは、誰かひとりがいなくなっても形を保つ。形を保てるからこそ、残された者の胸の穴だけが、かえって目立つ。


 わたしはそのころ、まだフランスを自分の未来として意識していなかった。


 けれど、父の死でひとつだけ覚えたことがある。


 家族の部屋だと思っていた場所にも、国家は平気で入ってくる。泣いている娘のそばにも、役目は黙って立っている。母が言った「見られている」という言葉は、ただ行儀よくしなさいという意味ではなかった。


 見られている。


 数えられている。


 選ばれるかもしれない。


 その先にどんな国の名が待っているのか、わたしはまだ知らない。知らないまま、音楽の部屋へ向かい、鍵盤に指を置いた。音はいつものように鳴った。胸の奥は、いつもと同じではなかった。


 遠いどこかの国の名前が、いつかわたしの扉を叩く。


 そんなことを、まだはっきりとは知らないまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ