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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

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第5話 19歳の王

 1774年5月10日、ヴェルサイユ宮殿の廊下で、私は祖父ルイ15世の死を待つしかなかった。


 待つ、という言葉は冷たい。けれど、その時の私は本当に待つことしかできなかった。扉の向こうでは医師と聖職者が動き、祈りの声が低く続いている。祖父は王だった。私にとっては、古い宮廷そのものでもあった。その人の呼吸が弱まるたび、私の未来が近づいてくる。


 マリーは私のそばにいた。


 いつもの華やかさは控えめに沈み、顔色は白かった。けれど背筋は伸びている。彼女も分かっている。次に扉が開く時、私たちは昨日までの私たちではいられない。


「王太子殿下」


 侍従が呼びかけ、すぐに言葉を飲み込んだ。


 まだ祖父は生きている。だから私はまだ王太子だ。けれど、呼び名はもう足元で揺れていた。王太子。陛下。その二つの間に、私の心だけが取り残されている。


 扉が開いた。


 誰かの顔を見た瞬間、聞く前に分かった。


 祖父は亡くなった。


 空気が一度、深く沈んだ。次の瞬間、人々が私たちに向かって膝を折った。まるで宮殿全体の重心が、私の足元に移ったようだった。


「国王陛下」


 その言葉が、私に向けられた。


 私は動けなかった。


 陛下。


 それは祖父の呼び名だった。父がなるはずだったものでもある。兄が生きていれば、遠い未来に兄へ向かったかもしれない言葉だ。それが今、私の前に置かれている。


 隣でマリーの息が震えた。


 私は彼女の手を取った。礼儀としてではない。自分が倒れないためでもあった。


 私たちは、まだ若すぎた。


 ******


 その日のうちに、私とマリーは王の居室へ移された。


 部屋は以前からそこにあった。家具も、壁も、窓も、突然変わったわけではない。けれど、そこへ入った瞬間、私は自分が誰かの部屋を借りているような感覚に襲われた。王の机。王の椅子。王の寝台。すべてが私より先に王であり、私だけが遅れている。


 マリーと二人になった時、私はようやく膝から力が抜けた。


 私たちは並んで跪いた。


 教えられた祈りの言葉はいくつもあった。けれど、その時に口から出たのは、整った祈祷文ではなかった。


「神よ、私たちをお守りください」


 声が震えた。


「私たちは、若すぎます」


 マリーの手が、私の手に重なった。


 その温かさで、私は自分が泣きそうになっていることに気づいた。王が泣いてよいのか分からない。けれど、夫としてなら、ひとりの人間としてなら、泣きたいほど怖かった。


 私は王冠を望んだことがない。


 よい王でありたいとは思っていた。民を苦しめたくない。神に恥じることをしたくない。父に言った「努力します」という言葉を嘘にしたくない。けれど、それは遠い未来の約束のようなものだった。


 未来は、突然現在になる。


 私はその速さについていけなかった。


「ルイ」


 マリーが私の名を呼んだ。


 王としての名ではなく、夫としての名だった。


「はい」


「一緒に、やりましょう」


 彼女の声も震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。


 私は顔を上げた。


 彼女は泣いてはいない。泣きそうな目で、それでもこちらを見ている。私はその目を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


 怖い。


 だが、怖いからといって王でなくなるわけではない。


 私は深く息を吸った。


「はい。一緒に」


 短い返事だった。


 その短さの中に、今の私が持てるだけの決意を入れた。


 ******


 翌朝、私は王として初めて目覚めた。


 目覚めた、と言っても、眠れた時間はほとんどない。夜の間、何度も目を開けた。部屋は祖父のものだったはずなのに、今は私の部屋と呼ばれる。天井の装飾も、重い布も、遠い足音も、すべてが昨日までと同じなのに、私だけが名前を変えられていた。


 朝の儀礼が始まると、その感覚はいっそう強くなった。


 人々が入ってくる。服を整える者、髪を整える者、報告を持つ者、ただ王の朝を見届けるためにいる者。私は立ち、座り、腕を上げ、言われた通りに動いた。王の体は、王自身だけのものではないのだと知った。


「陛下、こちらを」


 侍従が衣を差し出す。


 陛下。


 呼ばれるたび、まだ少し遅れて反応してしまう。


 その遅れを悟られまいとして、私は表情を整えた。祖父なら自然にできたのだろうか。父なら、もっと厳かな顔で立てただろうか。兄なら、人々の期待を笑顔で受け止めただろうか。消えた背中ばかりが、朝の鏡に映る。


 儀礼の終わりに、最初の署名が差し出された。


 内容は大きなものではない。日々の王務の一部に過ぎないと説明された。けれど、私はペンを取る手が重かった。これから私の名は、命令になる。許可になる。拒絶になる。誰かの生活に触れるものになる。


 私は署名した。


 インクが紙に沈む。


 それだけのことなのに、胸の奥で小さな音がした。


 王になるとは、特別な日に王冠を受けることだけではない。


 こうして毎朝、紙の上に自分の名を置き、その責任を少しずつ積み上げていくことなのだ。


 私はペンを戻し、手の震えを袖の中に隠した。


 そのあとも、人々は次々に来た。


 ある者は任命を願い、ある者は恩恵を求め、ある者は先王時代からの不満をそっと差し出した。誰もが丁寧だった。誰もが王を敬っているように見えた。けれど、その丁寧さの内側には、それぞれの必要があった。


 王になれば、人々は私の前で正直になるのだと思っていた。


 実際は、逆かもしれない。


 王の前では、人はもっとも整えた顔をする。怒りも、欲も、恐れも、忠誠という布で包んで持ってくる。私はその布を外して中身を見なければならない。だが、まだその見分け方を知らなかった。


 老いた役人が、地方の訴えを差し出した。


「陛下ならば、きっと民の苦しみをお分かりくださいます」


 その声は温かかった。


 私はうなずいた。


「分かりたいと思う」


 言った瞬間、それが正直すぎる言葉だと気づいた。分かる、と言い切れなかった。私はまだ知らない。民の家の寒さも、畑の重さも、税を払う日の沈黙も。


 だが、知らないことを知っているふりだけはしたくなかった。


 役人は少し驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。


 この国を知るところから始めなければならない。


 十九歳の王として、私はあまりにも遅い出発点に立っていた。


 ******


 即位からしばらくの間、ヴェルサイユには期待の言葉があふれた。


 若い王。新しい時代。善良な陛下。民を愛する陛下。人々は私をそう呼んだ。私がまだ何もしていなくても、期待は先に走っていく。期待されることはありがたい。けれど、それは借金にも似ていた。返せるかどうか分からないものを、先に積まれていく。


 最初の謁見で、私は王座に座った。


 椅子は大きかった。大きすぎて、座っているのに支えられている気がしない。前に並ぶ人々は、私の言葉を待っている。貴族、聖職者、役人、軍人。皆が、それぞれの願いと不満と計算を持っている。


 私は原稿に目を落とした。


 王として言うべき言葉は用意されていた。祖父の死を悼み、神の助けを願い、民の幸福を望む。どれも正しい。どれも私の気持ちから遠いわけではない。


 ただ、正しい言葉を読むだけで、よい王になれるわけではない。


 それが怖かった。


 私は原稿から少し目を上げた。


「余は、民を苦しめたいわけではない」


 用意された文章とは少し違う言葉が出た。


 場の空気がわずかに動いた。


 私は続けた。


「神の前に、王家の前に、フランスの前に、できるかぎり正しくあろうと努める」


 声は大きくなかった。威厳があったかどうかも分からない。けれど、それは私自身の言葉だった。少なくとも、紙から借りただけの言葉ではなかった。


 人々は頭を下げた。


 その姿を見て、胸に温かいものが生まれた。信じてもらえるかもしれない。私が本当に民を思えば、この国は少しよくなるかもしれない。若くても、学べば、祈れば、誠実であれば。


 そう信じたかった。


 けれど、王座から見える人々の顔は一つではなかった。期待する顔。試す顔。計算する顔。失望する準備をしている顔。


 私はそのすべてに、ひとつの答えを返さなければならない。


 王とは、こんなにも多くの目の前で迷う者なのか。


 その問いが、胸の奥に残った。


 ******


 1775年、ランスでの戴冠式の日、私は王冠を受けるために立っていた。


 大聖堂の空気は、ヴェルサイユとは違う重さを持っていた。石の柱は高く、祈りの声は冷たい天井へ昇っていく。香の煙が白く揺れ、聖油の匂いが近づくたび、私は自分の体が自分だけのものではなくなっていくように感じた。


 王になる儀式は、もう即位の日に終わったはずだった。


 けれど戴冠式は、それを神と人々の前で改めて刻み直すものだった。逃げられないように。忘れられないように。


 王冠が近づいた。


 私は頭を少し下げた。


 金属の重さが、頭に乗る。実際の重さは耐えられないほどではない。けれど、首の奥から背中へ、見えないものがずしりと落ちた。


 この重さを、父は受けるはずだった。


 兄が生きていれば、私はここにいなかったかもしれない。


 だが、今ここにいるのは私だ。


 その事実だけは、誰にも代わってもらえない。


 式のあいだ、私は幾度も民のことを考えた。大聖堂の外にいる人々。パリにいる人々。畑で働く人々。税を払う人々。私の顔を見たこともない人々。彼らは、私がどんな男かを知らない。私も彼らを知らない。


 それでも、私は彼らの王になった。


 知らない人々を愛すると誓うことは、思っていたより難しい。だが、それを難しいと言って避けることはできない。


 式が終わり、歓声が遠くから届いた。


 若い王への期待の声だった。


 私はその声を喜ぶべきだった。実際、胸が熱くなる瞬間もあった。だが同時に、怖さが増した。人々が私を信じてくれるほど、裏切った時の傷は大きくなる。


 歓声は祝福であると同時に、約束を求める声でもあった。彼らはまだ私の失敗を知らない。私自身も、自分がどれほど遅れる王になるのか知らない。だからこそ、その信頼は眩しすぎた。


 私は王冠の下で、静かに息を吸った。


 よい王になりたい。


 それは本心だ。


 だが、よい王になりたいと思うことと、よい王として選び続けることは違う。


 私はその違いを、まだ知らなかった。


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