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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

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19/54

第4話 夫婦になれない夫婦

 1771年、ヴェルサイユ宮殿の朝、私は王太子としてマリーと同じ食卓に着いていた。


 結婚から一年が過ぎても、食卓の上の銀器は私たちよりずっと自然に並んでいた。皿、杯、匙、パン。それぞれの位置が決まっていて、誰が見ても役目が分かる。私とマリーも夫婦として並んでいる。けれど、互いの役目を本当に分かっているとは言いにくかった。


 マリーは朝から明るかった。


 明るくあろうとしていた、と言うべきかもしれない。彼女は宮廷の人々に笑い、侍女に声をかけ、退屈な話にも首を傾けて聞いていた。フランス語は以前よりなめらかになり、笑顔も洗練されていく。遠い国から来た少女は、少しずつフランスの王太子妃の形を覚えていた。


 私はその努力を知っていた。


 知っていたのに、言葉にするのが遅かった。


「昨夜の舞踏会は、楽しかったですか」


 私がそう聞くと、マリーは少し驚いたようにこちらを見た。


「ええ。殿下もいらっしゃればよかったのに」


「私は、あまり賑やかな場が得意ではありません」


「知っています」


 彼女は軽く笑った。


 責める笑いではなかった。けれど、私の胸には小さく刺さった。彼女は知っている。私が人の多い場所を避けることも、踊りより狩りや読書を選ぶことも、宮廷の軽い会話に入れないことも。


「でも、たまには来てください」


 マリーの声は明るかった。


 私はうなずいた。


「努力します」


 言ってから、またその言葉かと思った。


 父に言った時と同じ言葉。便利で、誠実そうで、けれど今すぐ何かを変える力の弱い言葉。マリーは笑顔のままパンを小さくちぎった。


 その指先を見て、私は気づいた。


 彼女は誘ってくれたのだ。


 私を自分のいる場所へ入れようとしてくれた。私はそれに、曖昧な約束だけで返した。


 傷つけないようにしたはずの言葉が、人を遠ざけることもある。


 その事実を、私はまた少し遅れて理解した。


 ******


 宮廷では、何も起きていないことさえ噂になる。


 1772年のヴェルサイユで、私たち夫婦に世継ぎが生まれないことは、誰もが知る話題になっていた。誰も正面からは言わない。けれど、視線の角度、咳払いの間、侍女たちの沈黙、貴族たちの笑いの切れ目に、それはいつも置かれていた。


 私が廊下を歩くと、人々は頭を下げる。


 その下げた頭の奥で、何を考えているのか分からない。王太子として物足りないと思っているのか。マリーを気の毒に思っているのか。あるいは、ただ面白がっているのか。


 私は分からないものを、いつも悪く考えすぎる。


 その日の午後、祖父に呼ばれた。


 ルイ15世は椅子に座り、私を見た。以前より疲れた顔をしているように見えたが、王としての重さは変わらない。部屋の空気が、祖父の呼吸に合わせて動いているようだった。


「ルイ」


「はい、陛下」


「王家には続くことが必要だ」


 それだけで、何の話か分かった。


 私は喉を鳴らしそうになり、こらえた。祖父の言葉は短い。短いだけに逃げ場がない。私は返事を探した。申し訳ありません、と言うのは違う。努力しています、と言うのも違う。何をどう説明すればよいのか分からない。


「承知しております」


 結局、そう答えた。


 祖父は私を見つめた。


「承知だけでは足りないこともある」


 私は目を伏せた。


 足りない。


 その言葉は、ずっと私の後ろを歩いている。王太子として足りない。夫として足りない。男として足りない。人として足りない。誰もそこまで言っていないのに、私の中では勝手に言葉が増えていく。


 部屋を出たあと、廊下の窓辺で足が止まった。


 庭では、マリーが侍女たちと歩いていた。彼女は笑っている。薄い色のドレスが風に揺れ、周りの人々も楽しげに見えた。けれど、その笑顔の下に、私と同じ圧力がかかっているのだと思うと、胸が苦しくなった。


 彼女だけが責められることもあるのだろう。


 遠い国から来て、夫にうまく近づけず、世継ぎの期待を背負わされる。私が黙るたび、彼女は一人で宮廷の視線を受けているのかもしれない。


 私は窓ガラスに映る自分を見た。


 何かを言うべきだ。


 そう思っても、足はすぐには動かなかった。


 ******


 その夜、私はマリーの居室を訪ねた。


 ヴェルサイユの夜は昼より静かだが、完全に私的な時間にはならない。廊下には侍従がいて、扉の向こうには侍女がいる。王族の生活は、壁の中まで誰かの気配を連れてくる。


 マリーは椅子に座り、手紙を読んでいた。


 私が入ると、彼女は急いで手紙を閉じた。ほんの一瞬だったが、その動きに寂しさのようなものを感じた。母国からの手紙だろうか。ウィーンの言葉、母の言葉、姉妹の言葉。彼女がフランス語で笑っている間も、心のどこかには別の言葉が残っている。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 彼女は笑った。


「殿下がおいでになるのは、珍しいですもの」


 軽い言い方だった。けれど、軽いからこそ痛かった。


 私は椅子の前で立ち止まった。


「今日、陛下から話がありました」


 マリーの笑顔が少しだけ固くなった。


「世継ぎのことですね」


「はい」


 沈黙が落ちた。


 いつもなら、私はそこで安全な言葉を探す。焦らなくてよい、時間がある、宮廷の噂など気にしなくてよい。どれも悪い言葉ではない。けれど、彼女が毎日浴びている視線の前では、軽すぎる。


 私は怖かった。


 自分の弱さを口にすれば、彼女に失望されるかもしれない。夫として頼りないと思われるかもしれない。けれど、ここで何も言わなければ、彼女はまた一人で笑うことになる。


 私は息を吸い、手を握った。


「あなたを、一人で責められる場所に立たせたくありません」


 マリーは私を見た。


 大きな目が、少し揺れていた。


「殿下」


「私は、うまくありません。言葉も、振る舞いも。あなたが望む夫には、たぶんなれていない」


 言いながら、胸が痛んだ。自分で認めるのは苦しい。けれど、それは彼女がずっと見てきた事実でもある。


「でも、責められるべきなら、私も同じです」


 マリーはしばらく黙っていた。


 私は言いすぎたのかもしれないと思った。慰めにもならない言葉を、ただ自分の罪悪感で押しつけたのかもしれない。そう考えた瞬間、逃げ出したくなった。


 彼女はゆっくり手紙を机に置いた。


「殿下は、不器用ですね」


「はい」


 否定できなかった。


 マリーは少しだけ笑った。今度の笑みは、宮廷に向けるものより小さく、やわらかかった。


「でも、今の言葉は、嬉しかったです」


 その一言で、胸の奥の力が抜けた。


 夫婦になれたとは言えない。たった一つ言葉を渡せただけだ。けれど、何年も閉じていた扉が、ほんの少しだけ動いた気がした。


 私は初めて、錠前ではないものが開く音を聞いたように思った。


 ******


 それからしばらくして、私はマリーと庭を歩く時間を作るようになった。


 ヴェルサイユの庭は、どこまでも整っている。木は刈られ、道はまっすぐで、水は決められた形に噴き上がる。人の心もこれほど整えられればよいのにと、私は何度も思った。けれど、隣を歩くマリーの心は、私にはまだよく分からない。


「殿下は、庭でも静かなのですね」


 彼女が言った。


「騒がしい庭というのは、あまり想像できません」


「そういう意味ではありません」


 マリーは笑った。


 その笑い方が、少しずつ変わってきたことに私は気づいていた。宮廷に向ける明るい笑いではなく、私の不器用さに呆れながらも許すような笑い。以前の私なら、その違いにも気づかなかったかもしれない。


「ウィーンの庭は、ここより自由でしたか」


 私が尋ねると、彼女は足を少し緩めた。


「自由、だったのでしょうか。あの頃は、そう思っていました」


「今は?」


「今思えば、あそこにも母の目がありました。でも、フランスほど多くの人には見られていませんでした」


 彼女の声は軽くなかった。


 私は返事を探した。慰めたい。けれど、簡単な慰めは彼女の孤独を小さく扱うことになる。私がフランスの王太子である限り、彼女をこの国へ連れてきた側でもある。その事実から逃げることはできない。


「私は、あなたがどこで息をしやすいのか、まだ分かっていません」


 私は言った。


 マリーがこちらを見た。


「でも、知りたいとは思っています」


 言い終えるまでに、胸が少し痛んだ。こういう言葉は、私にはいつも遅れて出る。もっと早く言えていれば、彼女の寂しさは少し軽くなったのだろうか。


 マリーはしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。


「では、たまには舞踏会にも来てください」


 私は困った。


 彼女はそれを見て、また笑った。


 その笑顔が少しだけ近かったので、私は逃げずにうなずいた。


「努力します。今度は、少し具体的に」


 マリーは声を立てて笑った。


 その笑いを聞いて、私はようやく、自分たちが夫婦になろうとしている途中なのだと思えた。


 ******


 1774年の春、ヴェルサイユ宮殿に祖父ルイ15世の病の知らせが広がった。


 廊下の空気が変わるのを、私はすぐに感じた。父の病、兄の病、その時と同じ匂いがする。薬、蝋燭、祈り、抑えた声。宮廷は華やかな衣装を着たまま、死の前では急に古びて見える。


 祖父の部屋へ向かう途中、マリーが私の隣を歩いていた。


 彼女は以前よりフランスの宮廷に慣れていた。歩き方も、視線の置き方も、言葉の返し方も。けれど、その横顔には緊張があった。祖父が亡くなれば、私たちは王と王妃になる。


 夫婦であることにも、まだ慣れていないのに。


「殿下」


 マリーが小さく言った。


「はい」


「怖いですか」


 以前、婚礼の祝宴で彼女が同じように怖いと言った時、私は国を代表する言葉で返してしまった。あの失敗を、私は覚えている。


 今回も、すぐには答えられなかった。


 王太子としては、落ち着いているべきだ。祖父の病を前に、自分の恐れを言うのは幼いかもしれない。けれど隣にいるのは、同じ未来へ押し出される妻だった。


 私は足を止め、少しだけ彼女を見た。


「怖いです」


 言葉にすると、思ったより静かだった。


 マリーはうなずいた。


「わたしも」


 それだけで、廊下の冷たさが少し変わった。


 怖さが消えたわけではない。王冠の重さが軽くなったわけでもない。けれど、同じものを怖いと言える相手が隣にいる。それは、私が思っていたより大きなことだった。


 祖父の部屋の前で、私たちは立ち止まった。


 扉の向こうから低い祈りの声が聞こえる。


 私は手を握り、目を閉じた。


 私たちは夫婦になる前に、王と王妃になってしまうのかもしれない。


 その問いに答える時間は、もうほとんど残されていなかった。


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