第4話 夫婦になれない夫婦
1771年、ヴェルサイユ宮殿の朝、私は王太子としてマリーと同じ食卓に着いていた。
結婚から一年が過ぎても、食卓の上の銀器は私たちよりずっと自然に並んでいた。皿、杯、匙、パン。それぞれの位置が決まっていて、誰が見ても役目が分かる。私とマリーも夫婦として並んでいる。けれど、互いの役目を本当に分かっているとは言いにくかった。
マリーは朝から明るかった。
明るくあろうとしていた、と言うべきかもしれない。彼女は宮廷の人々に笑い、侍女に声をかけ、退屈な話にも首を傾けて聞いていた。フランス語は以前よりなめらかになり、笑顔も洗練されていく。遠い国から来た少女は、少しずつフランスの王太子妃の形を覚えていた。
私はその努力を知っていた。
知っていたのに、言葉にするのが遅かった。
「昨夜の舞踏会は、楽しかったですか」
私がそう聞くと、マリーは少し驚いたようにこちらを見た。
「ええ。殿下もいらっしゃればよかったのに」
「私は、あまり賑やかな場が得意ではありません」
「知っています」
彼女は軽く笑った。
責める笑いではなかった。けれど、私の胸には小さく刺さった。彼女は知っている。私が人の多い場所を避けることも、踊りより狩りや読書を選ぶことも、宮廷の軽い会話に入れないことも。
「でも、たまには来てください」
マリーの声は明るかった。
私はうなずいた。
「努力します」
言ってから、またその言葉かと思った。
父に言った時と同じ言葉。便利で、誠実そうで、けれど今すぐ何かを変える力の弱い言葉。マリーは笑顔のままパンを小さくちぎった。
その指先を見て、私は気づいた。
彼女は誘ってくれたのだ。
私を自分のいる場所へ入れようとしてくれた。私はそれに、曖昧な約束だけで返した。
傷つけないようにしたはずの言葉が、人を遠ざけることもある。
その事実を、私はまた少し遅れて理解した。
******
宮廷では、何も起きていないことさえ噂になる。
1772年のヴェルサイユで、私たち夫婦に世継ぎが生まれないことは、誰もが知る話題になっていた。誰も正面からは言わない。けれど、視線の角度、咳払いの間、侍女たちの沈黙、貴族たちの笑いの切れ目に、それはいつも置かれていた。
私が廊下を歩くと、人々は頭を下げる。
その下げた頭の奥で、何を考えているのか分からない。王太子として物足りないと思っているのか。マリーを気の毒に思っているのか。あるいは、ただ面白がっているのか。
私は分からないものを、いつも悪く考えすぎる。
その日の午後、祖父に呼ばれた。
ルイ15世は椅子に座り、私を見た。以前より疲れた顔をしているように見えたが、王としての重さは変わらない。部屋の空気が、祖父の呼吸に合わせて動いているようだった。
「ルイ」
「はい、陛下」
「王家には続くことが必要だ」
それだけで、何の話か分かった。
私は喉を鳴らしそうになり、こらえた。祖父の言葉は短い。短いだけに逃げ場がない。私は返事を探した。申し訳ありません、と言うのは違う。努力しています、と言うのも違う。何をどう説明すればよいのか分からない。
「承知しております」
結局、そう答えた。
祖父は私を見つめた。
「承知だけでは足りないこともある」
私は目を伏せた。
足りない。
その言葉は、ずっと私の後ろを歩いている。王太子として足りない。夫として足りない。男として足りない。人として足りない。誰もそこまで言っていないのに、私の中では勝手に言葉が増えていく。
部屋を出たあと、廊下の窓辺で足が止まった。
庭では、マリーが侍女たちと歩いていた。彼女は笑っている。薄い色のドレスが風に揺れ、周りの人々も楽しげに見えた。けれど、その笑顔の下に、私と同じ圧力がかかっているのだと思うと、胸が苦しくなった。
彼女だけが責められることもあるのだろう。
遠い国から来て、夫にうまく近づけず、世継ぎの期待を背負わされる。私が黙るたび、彼女は一人で宮廷の視線を受けているのかもしれない。
私は窓ガラスに映る自分を見た。
何かを言うべきだ。
そう思っても、足はすぐには動かなかった。
******
その夜、私はマリーの居室を訪ねた。
ヴェルサイユの夜は昼より静かだが、完全に私的な時間にはならない。廊下には侍従がいて、扉の向こうには侍女がいる。王族の生活は、壁の中まで誰かの気配を連れてくる。
マリーは椅子に座り、手紙を読んでいた。
私が入ると、彼女は急いで手紙を閉じた。ほんの一瞬だったが、その動きに寂しさのようなものを感じた。母国からの手紙だろうか。ウィーンの言葉、母の言葉、姉妹の言葉。彼女がフランス語で笑っている間も、心のどこかには別の言葉が残っている。
「お邪魔でしたか」
「いいえ」
彼女は笑った。
「殿下がおいでになるのは、珍しいですもの」
軽い言い方だった。けれど、軽いからこそ痛かった。
私は椅子の前で立ち止まった。
「今日、陛下から話がありました」
マリーの笑顔が少しだけ固くなった。
「世継ぎのことですね」
「はい」
沈黙が落ちた。
いつもなら、私はそこで安全な言葉を探す。焦らなくてよい、時間がある、宮廷の噂など気にしなくてよい。どれも悪い言葉ではない。けれど、彼女が毎日浴びている視線の前では、軽すぎる。
私は怖かった。
自分の弱さを口にすれば、彼女に失望されるかもしれない。夫として頼りないと思われるかもしれない。けれど、ここで何も言わなければ、彼女はまた一人で笑うことになる。
私は息を吸い、手を握った。
「あなたを、一人で責められる場所に立たせたくありません」
マリーは私を見た。
大きな目が、少し揺れていた。
「殿下」
「私は、うまくありません。言葉も、振る舞いも。あなたが望む夫には、たぶんなれていない」
言いながら、胸が痛んだ。自分で認めるのは苦しい。けれど、それは彼女がずっと見てきた事実でもある。
「でも、責められるべきなら、私も同じです」
マリーはしばらく黙っていた。
私は言いすぎたのかもしれないと思った。慰めにもならない言葉を、ただ自分の罪悪感で押しつけたのかもしれない。そう考えた瞬間、逃げ出したくなった。
彼女はゆっくり手紙を机に置いた。
「殿下は、不器用ですね」
「はい」
否定できなかった。
マリーは少しだけ笑った。今度の笑みは、宮廷に向けるものより小さく、やわらかかった。
「でも、今の言葉は、嬉しかったです」
その一言で、胸の奥の力が抜けた。
夫婦になれたとは言えない。たった一つ言葉を渡せただけだ。けれど、何年も閉じていた扉が、ほんの少しだけ動いた気がした。
私は初めて、錠前ではないものが開く音を聞いたように思った。
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それからしばらくして、私はマリーと庭を歩く時間を作るようになった。
ヴェルサイユの庭は、どこまでも整っている。木は刈られ、道はまっすぐで、水は決められた形に噴き上がる。人の心もこれほど整えられればよいのにと、私は何度も思った。けれど、隣を歩くマリーの心は、私にはまだよく分からない。
「殿下は、庭でも静かなのですね」
彼女が言った。
「騒がしい庭というのは、あまり想像できません」
「そういう意味ではありません」
マリーは笑った。
その笑い方が、少しずつ変わってきたことに私は気づいていた。宮廷に向ける明るい笑いではなく、私の不器用さに呆れながらも許すような笑い。以前の私なら、その違いにも気づかなかったかもしれない。
「ウィーンの庭は、ここより自由でしたか」
私が尋ねると、彼女は足を少し緩めた。
「自由、だったのでしょうか。あの頃は、そう思っていました」
「今は?」
「今思えば、あそこにも母の目がありました。でも、フランスほど多くの人には見られていませんでした」
彼女の声は軽くなかった。
私は返事を探した。慰めたい。けれど、簡単な慰めは彼女の孤独を小さく扱うことになる。私がフランスの王太子である限り、彼女をこの国へ連れてきた側でもある。その事実から逃げることはできない。
「私は、あなたがどこで息をしやすいのか、まだ分かっていません」
私は言った。
マリーがこちらを見た。
「でも、知りたいとは思っています」
言い終えるまでに、胸が少し痛んだ。こういう言葉は、私にはいつも遅れて出る。もっと早く言えていれば、彼女の寂しさは少し軽くなったのだろうか。
マリーはしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「では、たまには舞踏会にも来てください」
私は困った。
彼女はそれを見て、また笑った。
その笑顔が少しだけ近かったので、私は逃げずにうなずいた。
「努力します。今度は、少し具体的に」
マリーは声を立てて笑った。
その笑いを聞いて、私はようやく、自分たちが夫婦になろうとしている途中なのだと思えた。
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1774年の春、ヴェルサイユ宮殿に祖父ルイ15世の病の知らせが広がった。
廊下の空気が変わるのを、私はすぐに感じた。父の病、兄の病、その時と同じ匂いがする。薬、蝋燭、祈り、抑えた声。宮廷は華やかな衣装を着たまま、死の前では急に古びて見える。
祖父の部屋へ向かう途中、マリーが私の隣を歩いていた。
彼女は以前よりフランスの宮廷に慣れていた。歩き方も、視線の置き方も、言葉の返し方も。けれど、その横顔には緊張があった。祖父が亡くなれば、私たちは王と王妃になる。
夫婦であることにも、まだ慣れていないのに。
「殿下」
マリーが小さく言った。
「はい」
「怖いですか」
以前、婚礼の祝宴で彼女が同じように怖いと言った時、私は国を代表する言葉で返してしまった。あの失敗を、私は覚えている。
今回も、すぐには答えられなかった。
王太子としては、落ち着いているべきだ。祖父の病を前に、自分の恐れを言うのは幼いかもしれない。けれど隣にいるのは、同じ未来へ押し出される妻だった。
私は足を止め、少しだけ彼女を見た。
「怖いです」
言葉にすると、思ったより静かだった。
マリーはうなずいた。
「わたしも」
それだけで、廊下の冷たさが少し変わった。
怖さが消えたわけではない。王冠の重さが軽くなったわけでもない。けれど、同じものを怖いと言える相手が隣にいる。それは、私が思っていたより大きなことだった。
祖父の部屋の前で、私たちは立ち止まった。
扉の向こうから低い祈りの声が聞こえる。
私は手を握り、目を閉じた。
私たちは夫婦になる前に、王と王妃になってしまうのかもしれない。
その問いに答える時間は、もうほとんど残されていなかった。




