第1話 王になる予定ではなかった少年
1760年、ヴェルサイユ宮殿の朝、私はベリー公ルイ=オーギュストとして、兄の少し後ろを歩いていた。
磨き上げられた床は、子どもの靴音までやけに大きく響かせる。窓から入る光は金色の装飾に跳ね返り、壁も天井も、そこに立つ人間の姿までまぶしく見せた。けれど、そのまぶしさの中心にいるのは私ではなかった。私の前を歩く兄、ブルゴーニュ公だった。
兄は、ただ歩くだけで人を振り向かせた。
背筋が伸びていて、返事がはっきりしていて、笑えば大人たちの顔がやわらぐ。誰かが「さすがでございます」と言うたび、私は自分の手を背中の後ろで握った。悔しかったわけではない。少なくとも、そのころの私は、そう思っていた。
兄が前にいることは、私にとって都合がよかった。
なぜなら、兄が光を受けてくれるあいだ、私は影の中にいられたからだ。
「ベリー公、足が遅れております」
侍従の声が横から飛んできた。
「はい」
私は小さく返事をして、半歩だけ急いだ。
半歩でよかった。兄に並ぶ必要はない。並べと言われても困る。兄の隣は人々の視線が集まる場所で、私の居場所ではなかった。私の居場所は、その少し後ろ。誰かの袖の影で、誰かの言葉のあとにうなずく場所だった。
王族として生まれた以上、何も見られていないわけではない。食べ方、立ち方、祈るときの指の形、誰に先に頭を下げるか。そういうものは、いつも誰かが数えている。けれど兄がいれば、その数え方は少しゆるんだ。大人たちはまず兄を見る。父も、母も、祖父である国王陛下も、宮廷の人々も。
私はそれを、幸運だと思っていた。
******
同じ年の冬、ヴェルサイユの片隅にある小さな部屋で、私は壊れた錠前を膝に置いていた。
部屋の外では、遠くから人の声と衣擦れの音が流れてくる。宮廷はいつも誰かが動いている。扉が開き、閉まり、靴音が交差し、噂が廊下を渡っていく。けれど、この部屋にいるあいだだけは、その音が少し遠くなった。
「また錠前ですか、ベリー公」
教育係のヴォギュイヨン公が、机のそばで足を止めた。
私は慌てて顔を上げた。
「申し訳ありません。すぐに片づけます」
「叱っているのではありません」
公は、私の手元をのぞき込んだ。年長の男の人に近づかれると、私はどうしても肩に力が入る。けれど、その視線は責めるものではなかった。私の指先で小さな部品が動くのを、静かに見ていた。
「どうして開かなくなったのです」
「ここが、引っかかっています。力を入れれば折れます。だから、少しずつ動かさないと」
言ってから、私は口を閉じた。
少ししゃべりすぎた気がした。鍵や地図や本のことになると、私は時々、言葉が勝手に出てくる。人の前で意見を言うのは苦手なのに、金属の小さな仕組みなら怖くなかった。歯車は怒らない。ばねは笑わない。錠前は、正しく触れれば、正しく答える。
人は、そうはいかない。
「力を入れれば折れる、ですか」
ヴォギュイヨン公は、その言葉をゆっくり繰り返した。
私は何か間違えたのかと思い、指先を止めた。
「よい観察です。しかし、世の中には力を入れなければ動かないものもあります」
「……はい」
「その見分けを学ぶことです」
私は錠前に目を落とした。小さな穴の奥で、金属の舌がわずかに光っている。力を入れすぎれば壊れる。けれど、力を入れなければ開かないものもある。公の言葉は、たぶん錠前だけの話ではなかった。
それでも、そのときの私は、まだ自分に関係のある言葉として受け取れなかった。
王になるのは兄で、その前には父がいて、さらにその上には祖父がいる。私の前には、いくつもの背中があった。だから私は、自分の手元の小さな世界を直していればよかった。少なくとも、そう信じていたかった。
******
1761年、ヴェルサイユの空気は、兄の病室の前で急に重くなった。
廊下には薬草の匂いと蝋燭の匂いが混じっていた。扉の前を通る大人たちは声を落とし、誰かが泣きそうな顔をしても、すぐに表情を整えた。宮廷では悲しみさえ礼儀を着せられるのだと、その時に知った。
兄は、ベッドの上で小さく見えた。
いつも私の前を歩いていた背中が、白い布の中に沈んでいる。笑えば人を振り向かせた顔は熱で赤く、息は細かった。私は部屋の隅に立ち、何を言えばいいのか分からなかった。
「ルイ」
兄が私を呼んだ。
その声は、前よりもずっと軽かった。軽すぎて、手を伸ばせば壊れてしまいそうだった。
「はい、兄上」
「また、何か直していたのか」
私は首を横に振りかけて、少し迷い、うなずいた。
「小さな錠前を」
「お前らしいな」
兄は笑おうとした。けれど咳が先に出た。そばにいた大人が動き、母が兄の手を取った。私は一歩近づこうとして、足を止めた。近づいていいのか、邪魔になるのか、それさえ判断できなかった。
言葉を探しているうちに、時間だけが過ぎていく。
私はいつもそうだった。誰かを傷つけない言葉を選ぼうとして、結局、何も言えなくなる。兄の前ならもっと簡単に話せると思っていたのに、病の前では、どんな言葉も軽すぎた。
「早く、よくなってください」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
兄は目だけで笑った。
「お前は、まじめだな」
最後の言葉ではなかった。けれど、私の中では、なぜかそれがずっと残った。まじめだと言われるたび、私は少し困った。まじめであることはよいことのはずなのに、それだけでは何かが足りないような響きがあったからだ。
その日、私は病室を出てから礼拝堂へ向かった。
祈れば何かが変わると思ったわけではない。何をすればよいのか分からなかったから、祈るしかなかった。石の床に膝をつけると、冷たさが服越しに伝わってくる。私は手を組み、目を閉じた。
神よ、兄をお守りください。
それ以上の言葉は浮かばなかった。
しばらくして、兄は亡くなった。
私の前にあった背中のひとつが、音もなく消えた。
******
兄の死後、ヴェルサイユの廊下で私を見る目が変わった。
誰も露骨には言わない。宮廷の人々は、言葉を絹で包むのが上手い。けれど、包んでも重さは消えない。挨拶の角度が少し深くなる。私の返事を待つ沈黙が少し長くなる。私が本を読んでいるだけで、大人たちが小声で何かを確かめ合う。
私は王になったわけではない。王太子になったわけでもない。父がいる。祖父もいる。それでも、兄がいなくなっただけで、私の周囲の空気は変わった。
なぜなら、列は短くなったからだ。
その単純な事実が、私の肩に見えない手を置いた。
「今日の読書はここまでです」
ヴォギュイヨン公が本を閉じた。
机の上には、歴史書と地図が広げられている。フランスの境界線、都市の名、戦争の年号、王たちの決断。紙の上では、国は線で分けられていた。けれど、その線の向こうにいる人々の顔を想像しようとすると、急に紙が重く見えた。
「ベリー公。王とは何だと思われますか」
公の問いに、私はすぐ答えられなかった。
正しい答えはいくつも習っている。神から権威を預かる者。王国を守る者。正義を行う者。民を導く者。けれど、どれも口に出すには大きすぎた。
「……民を、苦しめてはならない者だと思います」
それが、私の中から出てきた言葉だった。
ヴォギュイヨン公は、少しだけ眉を動かした。
「では、民を苦しめないために、王は何をすべきでしょう」
私は地図に目を落とした。
答えが分からなかった。税を軽くすればよいのか。戦を避ければよいのか。法を正せばよいのか。誰かを罰することが、別の誰かを救うこともある。誰かを助けるための金が、別の誰かの負担になることもある。歴史書の中の王たちは、まるで最初から答えを知っていたように書かれている。けれど私は、その一行の前でさえ迷った。
「すぐに答えなくてもよろしい」
公は静かに言った。
私はほっとした。ほっとしてしまった。
その安堵が、少し怖かった。すぐに答えなくてもよいと言われると、私はそこへ逃げたくなる。考える時間が欲しい。間違えたくない。誰も傷つけたくない。そう思うことは悪くないはずなのに、胸の奥に小さな棘が残った。
私は本を閉じた。
「考えます」
短くそう答えると、公はうなずいた。
考えることならできる。黙って、観察して、壊さないように触れることならできる。けれど、王に必要なのは、それだけではないのかもしれない。
その予感を、私はまだ言葉にできなかった。
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1765年の冬、ヴェルサイユ宮殿で父ルイ・フェルディナンの病は深くなっていった。
父の部屋に入る前、私は扉の前で何度も手を握り直した。兄の病室の匂いを、体が覚えていた。薬草、蝋燭、低い祈りの声。あの時と同じものが廊下に漂っているだけで、足の裏が床に張りついたようになる。
父は敬虔な人だった。
宮廷の華やかさの中にいても、父の周りにはどこか礼拝堂に似た静けさがあった。笑い声より祈りの声が似合う人。厳しく、正しくあろうとし、その正しさを自分にも他人にも求める人。私は父を恐れていたし、尊敬していた。
「ルイ」
父の声は、以前よりかすれていた。
私はベッドのそばへ進み、膝を折った。
「父上」
父の手が、私の頭に触れた。熱はあまりなかった。むしろ冷たく感じた。その冷たさが怖くて、私は顔を上げられなかった。
「神を畏れなさい」
「はい」
「民を愛しなさい」
「はい」
「そして、よい王に」
そこで父は息をつまらせた。
私は反射的に顔を上げた。部屋の中の大人たちが動く。祈りの声が少し強くなる。母の指が震えているのが見えた。私は何か言わなければと思った。父の言葉に答えなければならない。けれど、喉の奥に大きな石が詰まったようで、声が出なかった。
よい王。
その言葉は、私には大きすぎた。
私はまだ王ではない。そう思いたかった。祖父がいる。父も、ここにいる。私はまだ、息子で、少年で、机の上の本を読み、壊れた錠前を直すだけの者でいたかった。
けれど父の手は、私の頭に置かれている。
まるで、何かを渡そうとするように。
怖かった。逃げたかった。だが、父の前で逃げることはできない。ここで黙っていれば、私はまた言葉を失う。兄の病室で、何もできずに立ち尽くした時のように。
私は息を吸い、両手を強く握った。
「努力します」
それだけを言った。
短く、弱い言葉だった。けれど私には、それ以上の約束はできなかった。守れるかどうか分からないことを、立派な声で言うのは怖かった。
父は、かすかにうなずいたように見えた。
その数日後、父は亡くなった。
祈りの声が部屋を満たし、誰かが静かに泣いた。私は泣いてよいのか、立っているべきなのか、分からなかった。息子としてなら泣きたかった。けれど、その瞬間から、私を見る人々の目は、息子を見る目だけではなくなっていた。
父がいなくなったことで、私は王太子になった。
王冠はまだ祖父の頭上にある。それなのに、その影だけが先に私へ落ちてきた。
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父の死後、ヴェルサイユの礼拝堂で、私は王太子として祈っていた。
冬の光は高い窓から細く差し込み、石の床に白い筋を作っている。周囲には大人たちがいた。誰も大きな声を出さない。けれど、その沈黙の中には、以前と違う重さがあった。
ベリー公ではなく、王太子。
呼び名が変わっただけで、廊下の空気まで変わる。侍従の頭の下げ方が深くなり、教師の問いが鋭くなり、母の視線が長くなる。私自身は、昨日と何も変わっていない。背も急に伸びていないし、声も強くなっていない。迷わなくなったわけでもない。
それなのに、人々は私の中に、未来の王を探し始めていた。
私は祭壇の前で手を組んだ。
神に祈る言葉は知っている。王家の子として言うべき言葉も、父から教えられた言葉も、教師から与えられた答えもある。けれど、そのどれもが、胸の奥の震えを消してはくれなかった。
兄がいれば。
そう思いかけて、私は目を閉じた。
兄はいない。父もいない。消えた背中を数えても、道は戻らない。私の前にあったものが一つずつなくなり、気づけば、私の後ろに誰かが並んでいる。私はもう、影の中だけにいることはできない。
錠前なら、仕組みを見れば開け方が分かる。
人の心は、そうではない。
国は、もっとそうではない。
それでも、いつか私が触れなければならない。力を入れすぎれば壊れる。力を入れなければ開かない。あの日、ヴォギュイヨン公が言った言葉が、今になって胸の中で重く響いた。
私はゆっくり顔を上げた。
祭壇の向こうに、答えは見えない。けれど、逃げ道も見えなかった。
「私は、王になる者なのか」
声に出すと、その問いは礼拝堂の石に吸い込まれた。
誰も答えなかった。
だから私は、その沈黙を抱えたまま立ち上がった。




