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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

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第2話 沈黙を覚えた王太子

 1766年、ヴェルサイユ宮殿の学習室で、私は王太子ルイ=オーギュストとして地図の前に立っていた。


 父が亡くなってから、机の上に置かれる本の厚みが変わった。歴史書も、法律の書も、国境を示す地図も、同じ紙でできているはずなのに、以前より重く見える。読めと言われれば読める。覚えろと言われれば覚える。けれど、覚えたことを自分の言葉として口に出す瞬間、喉の奥が固くなった。


 ヴォギュイヨン公は、私の沈黙を急かさなかった。


 それがありがたくもあり、怖くもあった。


「殿下。この地方で不作が続いたとします。税を軽くすれば王の収入は減ります。税をそのままにすれば民が苦しみます。どちらを選ばれますか」


 公の声は静かだった。責めているわけではない。ただ、問いを置いているだけだ。


 私は地図の上の小さな地名を見つめた。


 そこにいる人々の顔を、私は知らない。土を耕す手も、パンの固さも、冬の寒さも知らない。知らないまま「軽くする」と言えば、王家の金を扱う人々が困るのだろう。知らないまま「そのまま」と言えば、どこかの家で子どもが泣くのだろう。


 どちらも間違っているように思えた。


「……調べます」


 私はようやく答えた。


「何をでしょう」


「本当に不作なのか。どれほど苦しいのか。王の収入を減らしても、他で補えるのか。先に、それを」


 ヴォギュイヨン公はうなずいた。


「慎重であることは大切です」


 その言葉に、私は少し息をついた。


 けれど公は続けた。


「ただし、民の腹は、殿下の調査が終わるまで待ってはくれません」


 息が、胸の奥で止まった。


 私は答えられなかった。正しいことを言ったつもりだった。間違えないために調べる。それは悪いことではないはずだ。けれど、公の言葉は、私の答えの端にある遅さを指で押した。


 慎重さは、人を救う。


 同じ慎重さが、人を待たせる。


 その二つをどう分ければいいのか、私はまだ知らなかった。


 ******


 同じ年の春、ヴェルサイユの鏡の回廊で、私は祖父ルイ15世の後ろに控えていた。


 宮廷の空気は、学習室よりずっと難しい。地図なら線が見える。本なら文字が残る。けれど人の言葉には、書かれていない刃がある。笑いながら誰かを刺すこともあれば、褒めながら距離を測ることもある。


 祖父はその中を、疲れたように、けれど慣れた足取りで進んだ。


 ルイ15世陛下は、私にとって王冠そのものだった。優しい時もあったが、近づけば近づくほど、そこには古い香と重い沈黙があった。人々は祖父を見上げ、祖父の表情を読み、祖父の声の低さで一日の空気を変える。


 私はその背中を見ながら、王とは人を黙らせる存在でもあるのだと思った。


「王太子殿下」


 貴族のひとりが私に頭を下げた。


 私は足を止めた。


「ご勉学は、さぞお進みでございましょう」


 笑顔だった。けれど、その笑顔の奥に何があるのか分からない。期待なのか、試しなのか、ただの礼儀なのか。私は一瞬で答えを選べず、視線を少し落とした。


「まだ、学ぶことばかりです」


「ご謙遜を」


 相手はさらに笑った。


 その笑いが本物かどうか、私には分からなかった。だから私は、それ以上言わなかった。沈黙すれば、余計なことは言わずに済む。相手も失礼だとは言いにくい。王太子の沈黙は、臆病にも、慎み深さにも見える。


 便利だった。


 便利なものは、癖になる。


 その日の夕方、母に呼ばれた。母は椅子に座り、私を正面から見た。母の視線は優しい時でも、どこか祈りの燭台のようにまっすぐだった。


「ルイ。宮廷で黙っているだけでは、相手に考えを預けることになります」


「考えがないわけではありません」


 言ってから、私は少し驚いた。思ったより強い声が出た。


 母は目を細めた。


「なら、必要な時には言葉にしなさい」


「はい」


 私はそう答えた。


 必要な時。


 それがいつなのか分かれば、苦労はしなかった。


 ******


 1768年の雨の日、私は自分の部屋で錠前を分解していた。


 窓の外では庭が白く煙り、雨粒が石畳を叩いている。宮廷の音も、雨に包まれると少し遠くなる。机の上には小さな部品が並び、金属の匂いが指先に残っていた。私はその匂いが好きだった。飾りの香水より、ずっと正直だったからだ。


 錠前は、沈黙している。


 けれど沈黙していても、分からないわけではない。どこが噛み合い、どこがずれ、どこに力を入れれば動くのか。目を凝らせば、少しずつ見えてくる。人の顔色を読むより、ずっと公平だった。


「殿下、また手を黒くしておいでですか」


 侍従が困った顔で入ってきた。


 私は手元を見た。油で指が黒くなっている。


「すぐ洗う」


「このあと、謁見の場にお出ましです」


「分かっている」


 そう言いながら、私は最後のばねを戻した。小さな音がして、錠前の舌が動く。開いた。


 胸の奥が、少しだけ軽くなった。


 私はこの瞬間が好きだった。何かが正しく噛み合い、閉じていたものが開く瞬間。そこには拍手もない。大げさな称賛もない。ただ、動かなかったものが動いたという事実だけがある。


 人も、国も、こうならよいのにと思った。


 どこが詰まっているのか見えれば、そこを直せばいい。誰が苦しんでいるのか分かれば、そこへ手を伸ばせばいい。余計な飾りも、嘘も、宮廷の笑顔もいらない。


 けれど廊下へ出ると、その願いはすぐに遠のいた。


 人々がこちらを見た。私の服、表情、歩く速さ。誰かが私の手元を見て、指の黒さに気づいたように目を動かす。私は手を袖の中に隠した。


 隠した瞬間、自分で少し情けなくなった。


 錠前なら、黒い手でも直せる。


 王太子は、黒い手を見せてはいけない。


 私はまた、口を閉じた。


 ******


 1769年の終わりごろ、ヴェルサイユの一室で、私はオーストリアという名を何度も聞くようになった。


 地図の上では、オーストリアは遠い。けれど宮廷の話の中では、その遠い国が急に私の部屋の扉まで近づいてきた。使節、同盟、ハプスブルク家、マリア・テレジア女帝。そして、マリー・アントワネット。


 その名を初めて聞いた時、私は一瞬、どこに目を向ければよいのか分からなかった。


「オーストリアの大公女でございます」


 説明する声は、当然のことを告げるように落ち着いていた。


 大公女。


 その言葉の向こうに、同じ年ごろの少女がいるのだと頭では分かる。けれど、宮廷で語られる彼女は少女ではなく、同盟の形をしていた。フランスとオーストリアを結ぶもの。戦争の記憶を薄めるもの。未来の王妃となるもの。


 私は、そのどれとも結婚できる気がしなかった。


「殿下」


 ヴォギュイヨン公が、私の顔を見た。


「ご不安ですか」


 私はすぐに否定しようとした。王太子が結婚を不安がるなど、子どもじみていると思われるかもしれない。けれど否定の言葉も出なかった。不安ではないと言えば嘘になる。不安ですと言えば、弱すぎる。


「……私に、務まるのでしょうか」


 やっと、それだけ言った。


 公は少し黙った。


「務めるのです」


 柔らかくも厳しい答えだった。


 私はうなずいた。分かっている。王族の結婚は、個人の好みだけで決まるものではない。父も、母も、祖父も、そういう世界の中で生きてきた。私だけが怖いと言って逃げることはできない。


 けれど、彼女はどうなのだろう。


 遠いウィーンから来る少女は、私をどう思うのだろう。私の不器用さに失望するのだろうか。沈黙を冷たさだと思うのだろうか。私が言葉を探している間に、彼女はひとりで傷つくのだろうか。


 そう考えた瞬間、胸の奥が重くなった。


 国と国の契約なら、私は黙って受け入れればよい。


 だが相手がひとりの少女なら、黙っているだけでは足りない。


 私は窓の外を見た。冬の庭は静かで、木々の枝が細く空へ伸びている。どれだけ目を凝らしても、オーストリアは見えない。


 それでも、その名前はもう私の未来の中に入っていた。


 ******


 1770年の春、私の部屋に彼女の肖像画が運ばれてきた。


 ヴェルサイユの午後は明るく、窓から差し込む光が額縁の金を光らせていた。侍従が布を外すと、そこに若い少女の顔が現れた。白い肌、明るい髪、少し上げた顎。絵の中の彼女は、こちらが先に見つめ返されていると錯覚するほどまっすぐだった。


「たいへんお美しい大公女でございます」


 誰かがそう言った。


 私は返事をしなければならなかった。


 美しい、という言葉は間違いではない。絵の中の彼女は確かに美しかった。だが、美しいと言えば、その瞬間に彼女を一つの飾りのように扱ってしまう気がした。遠い国で育ち、家族と別れ、これから知らない言葉と視線の中へ来る少女を、ただ美しいとだけ言ってよいのか。


 迷っているうちに、部屋の空気が少し止まった。


 まただ。


 私の沈黙が、私の意思より先に人々へ届く。興味がないと思われたかもしれない。気に入らないと思われたかもしれない。ただ緊張しているだけなのに、その緊張は誰にもそのまま伝わらない。


「強い目をしておられる」


 私はようやく言った。


 侍従が少し戸惑ったように瞬きした。


「強い、でございますか」


「はい。遠くへ来る方の目に見えます」


 言ってから、これも変な言い方だったかもしれないと思った。けれど、それ以上飾る言葉は出なかった。絵の中の少女は笑っていない。誇らしげで、少しだけ不安を隠しているように見えた。


 私はその肖像画の前に一人残ったあと、小さく頭を下げた。


 本人に見えるはずもない。誰かに見られたら、奇妙に思われただろう。


 それでも、そうしたかった。


 まだ会ったことのない彼女に、せめて失礼のない夫でありたいと思った。


 だが、失礼のない夫とは何だろう。


 正しい礼をすることか。結婚式で間違えないことか。宮廷の前で彼女を立派に扱うことか。どれも必要なのだろう。けれど、肖像画の中の彼女を見ていると、それだけでは足りない気がした。


 彼女は遠い国を離れてくる。


 私はフランスで待つだけだ。


 その差を忘れてはいけないと思った。


「マリー・アントワネット」


 小さく口にすると、知らない音が部屋に落ちた。


 私はその名に、まだ返事を返すことができなかった。


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