最終章 光莉の章 第7話「届いた手紙」
その日も、光莉はいつも通り畑に出ていた。
土を耕す。種をまく。水をやる。それが彼女の役割だった。誰かに頼まれたわけではない。ただ、自分がやれることをやっているだけ。それで、誰かが喜んでくれる。それだけで、十分だった。
陽が傾き始めたころ、彼女は鍬を置き、祠の前を通りかかった。誰もいない。でも、供え物が新しく替えてある。誰かが来たのだ。光莉は手を合わせた。何も願わなかった。ただ、そこにいることに感謝した。
帰り道、ふと遠くを見ると、山の向こうから雲が湧き上がっている。もうすぐ雪が降る。この村では、それが「冬の訪れ」だった。
「おかえりなさい。ずいぶんと冷えたでしょう」
不意にかけられたその声に、光莉は自分の手を見た。泥に汚れ、白くかじかんでいる。
でも、その冷たさが、なぜかどうしようもなく愛おしかった。
――その頃。
年老いた母、瞳は、毎朝決まって郵便受けをチェックしていた。届く手紙はほとんどない。請求書か、広告か、時々遠くの友人からの年賀状くらい。それでも、彼女はその習慣を何年も続けていた。待っているわけではなかった。ただ、なんとなく。
その朝も、彼女はいつものように郵便受けを開けた。
一通の手紙が入っていた。
差出人は書かれていない。ただ、自分の名前が書かれているだけ。彼女は首をかしげながら封を切った。
便箋は一枚。掠れた文字で、こう書かれていた。
「元気です。私は今、とても静かな場所で暮らしています。」
読み進める。目が、文字を追う。
「誰も私を急かしません。誰も私に何かを求めません。私はただ、ここにいます。」
そこで、瞳の指が止まった。震えている。自分のものか、誰かのものか、わからない。
「それだけでいいのだと、初めて思えました。」
涙が、ぽたりと便箋に落ちた。
「……あら」
声が出た。それだけ。次の言葉が出てこなかった。
彼女はその手紙を何度も読み返した。光莉がどこにいるのかは書かれていない。どうやって暮らしているのかも書かれていない。
ただ——「元気です」と「ここにいます」と。それだけ。でも、それで十分だった。
窓の外では、夕日が沈み始めている。光莉が旅立った日も、こんな夕日だった。あの日から、どれだけの時間が経っただろう。十年。いや、もっと。もう数えてもいない。
瞳は手紙を胸に抱いた。温かい。自分の体温か、それとも光莉の指先の熱がまだ残っているのか。わからない。でも、それが嬉しかった。
「……あなた、見てる?」
呟いた。誰に言うでもなく。隣には誰もいない。夫、拓の写真は机の上に置いてある。瞳はその写真に語りかけた。
「光莉から、手紙が来たよ。元気だって。どこにいるかは書いてなかったけど……きっと、いい場所なんだろうね」
写真の中の拓は、無言で笑っている。それが答えだった。
その夜。瞳は一人、手紙を読み返していた。何度も。何度も。同じ文を。
「私はただ、ここにいます。」
その言葉が、彼女の胸に染み込んでいく。
光莉は、やっと自分の場所を見つけたのだ。誰にも見つからなくていい場所。誰にも見られなくていい場所。ただ、そこにいるだけでいい場所。
瞳は手紙を机の引き出しにしまった。拓の写真の隣に。そっと、優しく。
窓の外の月が、静かに浮かんでいた。同じ月を、光莉も見ているのだろうか。わからない。でも、そんな気がした。
それで、よかった。




