最終章 光莉の章「光莉の旅路」エピローグ
時はいつのことだろうか。
窓辺に、一人の女性が座っていた。
陽が昇り始めたばかりの、静かな朝だった。山の稜線がぼんやりと浮かび上がり、谷間の集落をゆっくりと照らし出していく。
彼女はその光を見つめながら、手にしたカップを両手で包んでいた。湯気が立ち上る。コーヒーの香りが、冷えた空気に溶けていく。
村には、時計がない。カレンダーもない。誰も時間を気にしない。朝になれば起き、日が沈めば眠る。それだけの繰り返し。それが、ここでの生活だった。
何年も前――いや、何世代も前のことだ。一人の旅人がこの村に迷い込み、滞在した。誰もその名前を覚えていない。顔も、声も。ただ、その旅人が「ここは静かだ」と言ったことだけが、口伝えで残っている。
それを聞いた女性は、小さい頃からずっと、ここに住んでいる。両親も、祖父母も、みんなこの村で生まれ、この村で暮らしてきた。特別なことは何もない。ただ、ここにいるだけだ。
彼女は、ふと窓の外を見た。風が吹いている。木の葉が揺れる。遠くで、鳥が鳴いている。それだけ。
昔、この場所に来た旅人も、同じように窓辺に座っていたのだろうか。彼女はそんなことを考えた。答えは出ない。でも、その「答えのなさ」が、なぜか愛おしかった。
彼女はカップを置き、小さなノートを開いた。そこには、見たこと、感じたこと、考えたことが、ゆっくりとした筆跡で綴られている。
誰かに伝えるためではなく、ただ、自分の中にあるものを、外に出さずにはいられなかった。
彼女はペンを握った。何を書こうかと考えて――そして、書くことをやめた。
今日は、何も書くことがない。いや、正確には「書くべきことがない」のだ。ここでの時間は、あまりにも穏やかで、あまりにも平坦で、どこにも「引っかかり」がなかった。それが、なぜか心地よかった。
陽が、少しだけ高くなった。彼女はノートを閉じ、そっと胸に抱いた。
明日も、また同じ一日が始まる。誰も急かさない。誰も求めない。ただ、そこにいる。それだけでいい。
月日が流れ、彼女もまた年老いていくのだろう。この場所が、いつまで続くのかもわからない。
それでも――彼女は今日も、この窓辺に座っている。そこにいること。それだけが、すべてだった。
地図にない場所は、今もどこかにある。
誰かが、そこで笑い、誰かがそこで泣き、誰かがそこで静かに暮らしている。
世界は、そういう「計画」されていない場所によって、今日も支えられている。
――完――
本作品を持って、『彼女の計画外伝』は終幕となります。ご愛読ありがとうございました。
今後、拙作の更新はカクヨムに一本化してまいります。
続きやスピンオフがある場合はカクヨムにて引き継いでまいります。引き続き、よろしくお願いいたします。
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