最終章 光莉の章 第6話「生身のままで」
その朝、光莉はいつものように窓辺に座っていた。
陽が昇り始めたばかりだった。山の稜線が金色に染まり、谷間の集落をゆっくりと照らし出していく。
誰もまだ動いていない。どの家の煙突からも煙は立ち上っていない。ただ、静けさだけがそこにある。彼女はその静けさを、全身で感じていた。
ここに来てから、どれだけの時間が経っただろう。日数を数えるのをやめてから、もうずいぶんになる。時計も持たなければ、カレンダーも見ない。
ただ、陽が昇り、陽が沈む。
それだけの繰り返し。でも、それがなぜか「正しい」ように思えた。
彼女は自分の手を見た。指先は温かい。自分の体温だった。誰かの熱ではない。自分が生きているという、ただそれだけの証。その感覚が、彼女にとっての「幸せ」だった。
(私は、ここでいい)
そう思えるようになったのは、いつからだろう。最初はただの通りすがりだった。たまたま迷い込んだだけの、よそ者。
でも、いつの間にか、ここでの生活が「普通」になっていた。誰も彼女を特別扱いしない。誰も彼女に期待しない。ただ、そこにいる。それだけで、受け入れてもらえる。
それが、彼女にとっての「自由」だった。
ある日、光莉は山の上の小さな祠を訪れた。村の者が「たまにお参りに行く」と言っていた場所だ。道は荒れていて、獣道のような細い径を登っていく。息が切れた。足が震えた。でも、やめなかった。なぜか、行かずにはいられなかった。
祠は、本当に小さかった。石を積んだだけの、粗末なもの。そこには何も祀られていないように見えた。ただ、風が吹き抜けるだけ。
光莉はしばらくその前に立っていた。何を祈るでもなく。何を願うでもなく。ただ、そこにいた。
帰り道、彼女はふと自分の影を見た。陽が高く昇っていて、影は足元に小さく縮こまっている。それは確かに「自分の影」だった。誰のものでもない、自分だけの影。
(薄くは、なっていない)
そう思った。以前は、自分の影が薄くなっていくような気がしていた。誰かに見られなくなると、自分も見えなくなってしまうような気がしていた。でも、違った。見られなくても、影はある。自分は、ここにいる。
夜。借りている家の窓辺。
光莉はノートを開いていた。久しぶりに、何かを書こうと思った。ペンを握る。指先が温かい。自分の体温。
彼女はゆっくりと書き始めた。
「私は、見えなくなってもいい。でも、消えたくはない。」
その言葉の意味は、自分でもよくわからなかった。でも、書かずにはいられなかった。
書き終えた後、彼女はそのページをそっと撫でた。インクの凹凸。紙のざらつき。それが、彼女の「今」だった。
数日後、光莉は村の人と一緒に畑仕事をしていた。腰をかがめ、土を耕す。汗が滴る。土の匂い。風の冷たさ。それらはどれも、自分のためにあるのではなく、ただ「そこにある」だけだった。
誰かが声をかけた。
「旅は、終わったのかい」
光莉は顔を上げた。隣で作業をしていた女だった。彼女は土を耕しながら、こちらを見ようともしない。
「……わからない」
光莉は答えた。
「まだ、終わってないのかもしれない。でも——もう、どこかへ行かなきゃ、とも思わない」
女は何も言わなかった。ただ、鍬を振り続けた。
それが答えだった。
その夜、光莉は一通の手紙を書いた。
宛名を書く。何度も書き直す。届くかどうか分からない。もう会えないかもしれない。それでも書く。
「元気です。私は今、とても静かな場所で暮らしています。誰も私を急かしません。誰も私に何かを求めません。私はただ、ここにいます。それだけでいいのだと、初めて思えました。」
書き終えた後、彼女はその便箋を折りたたみ、封筒に入れた。届くかどうかは、運任せ。
外に出る。風が冷たい。でも、その冷たさが心地よかった。彼女は村の外れにある古い郵便受けに、その手紙をそっと入れた。集配の人が来るのは、週に一度か、それ以下か。届くかどうかもわからない。でも——それでよかった。
光莉は空を見上げた。星が一つ、また一つと瞬いている。その光は、何億年も前のものだ。今、この瞬間に届いた光は、もう存在しない過去を伝えている。
それでも、私たちはその光を見る。
それが、生きるということだ。
私は、ここで生きていく。
生身のまま、名前のないまま。
彼女は、そう思った。




