最終章 光莉の章 第5話「名前のない場所」
その集落にたどり着くまでに、光莉は何度も道に迷った。
地図の端からもこぼれ落ちるような場所。
誰かに道を聞こうにも、道すがら人に出会うこと自体がまれだった。獣道のような細い道を登り、下り、また登る。何日歩いただろう。自分の足が、もう自分のものではないような気がしてきた頃——突然、視界が開けた。
そこは、小さな盆地だった。
周りを山に囲まれ、中央にぽつりと数件の家がある。煙突からは煙が立ち上っている。畑には誰かがしゃがみ込んでいる。遠くで、子供の笑い声がする。
光莉はしばらくその光景を見つめていた。動けなかった。理由はわからない。ただ——そこにある風景が、あまりにも「静か」だったから。
「おや、旅の人かい」
声がした。振り返ると、白い髪の老婆が立っていた。杖をついている。でも、その目ははっきりとしていた。
「はい。通りかかったもので」
「そうかい。ここはね、誰も来ないところだよ。お前さん、迷い込んだんだね」
「……はい」
老婆はにこりと笑った。歯はほとんどない。でも、その笑顔はなぜか温かかった。
「泊まっていきな。どこでも空いてるから」
それは、かつてどこかの村で聞いた言葉と同じだった。でも、あの時とは何かが違う。光莉にはそれが何なのか、まだわからなかった。
光莉は、村の外れにある空き家を借りて、数日間そこに滞在することにした。
村での生活は、驚くほど規則的だった。朝になれば起きる。畑を耕す。食事をする。夕方になれば、家の前に集まって、何をするでもなく座っている。会話は少ない。でも、それが気まずいとは思わなかった。むしろ、その「何もしない」時間が、なぜか心地よかった。
ある日、光莉は村の女たちと一緒に畑仕事をした。誰も「ありがとう」とは言わない。でも、彼女が手を休めると、誰かが水を差し出した。何も言わずに。
「ここは、いつからあるんですか」
光莉が尋ねると、一人の老婆が首をかしげた。
「さあね。ずっと、あったよ」
「誰が作ったんですか」
「さあね。誰かが、作ったんだろうね」
それだけ。光莉はそれ以上、尋ねなかった。尋ねる必要がないことを、なんとなく感じたからだ。
夜。窓辺に座り、ノートを開く。
ここでの日々を書こうとしたが、ペンが動かなかった。書くことがないのではない。むしろ、書きたいことが多すぎた。でも、それを言葉にすると、何かがこぼれ落ちてしまいそうで、怖かった。
彼女はペンを置き、窓の外を見た。月がきれいだった。誰も見ていない。誰も気づいていない。でも、月はそこにある。自分も、そこにいる。それだけで、よかった。
数日後、光莉はその村を後にする決意をした。
特に理由はない。ずっとここにいてもいいと思える場所だった。でも、自分の足で歩いていたいという気持ちが、まだ彼女の中にあった。
村の入り口まで来たとき、誰かが見送りに来ているかと思った。でも、誰もいない。
遠くで、鶏の鳴く声がする。別の場所では、井戸を汲む音がする。彼らはそれぞれの仕事を続けている。光莉を「見送る」ために手を止める者は、一人もいなかった。
それが、彼らなりの「見送り」だった。
光莉は少しだけ振り返った。誰もいない。でも——誰かが「いた」気配だけが、そこに残っていた。
彼女は背筋を伸ばし、歩き出した。もう、誰かに見られることを気にしない。誰かを見ることも、必要以上にはしない。ただ、そこにいる。それでいい。
その感覚が、彼女の中で確かなものになりつつあった。




