最終章 光莉の章 第4話「自分の影」
麓の町に着いたとき、光莉は久しぶりに自分の顔を鏡で見た。
宿の洗面所。小さな丸い鏡。そこに映る自分の顔は、思ったよりずっと疲れているように見えた。目の下の隈。乾燥した唇。乱れた髪。
彼女はしばらくその姿を見つめていたけれど、すぐに目をそらした。見られている気がした。誰に——自分自身に。
「……変な感じ」
呟いて、蛇口をひねる。冷たい水が手のひらを流れていく。その冷たさが、なぜか心地よかった。
この町も、他の町と同じだった。人は歩き、車は走り、誰かが誰かを待ち、誰かが誰かを探している。
光莉はその雑踏の中に自分の居場所を見つけられず、ただ流されるままに歩いていた。
特に目的はない。行き先もない。ただ、自分の足で歩いているという感覚だけが、彼女を「今ここにいる」と信じさせていた。
ふと、立ち止まる。
そこは小さな公園だった。ベンチが一つ。遊具はない。ただの空き地。彼女はそこに座り、空を見上げた。雲がゆっくりと流れている。その下を、鳥が一羽飛んでいる。どこへ向かうのか、鳥自身もわかっていないのかもしれない。でも、飛ぶことをやめない。
光莉は自分の影を見た。陽が傾き始めていて、影は長く伸びている。その影は、自分の身体の形をしているのに、なぜか「自分」には見えなかった。誰かの影のように思えた。
(誰の影だろう)
考えて、すぐにやめた。答えが出ないことは、この旅の中で何度も経験してきた。
彼女はバッグからノートを取り出した。最近は、あまり書いていなかった。書くことがないからではない。むしろ、書きたいことが多すぎて、どこから書けばいいのかわからなくなっていた。
ページをめくる。最初のページ。そこに書かれた「0612」という数字。その数字を指でなぞる。紙のざらつき。インクの凹凸。それは、これまでの旅の記憶そのものだった。
(この数字は、どこへ行くんだろう)
誰に問うでもなく、思った。
数日後、光莉はその町を離れた。次の目的地は決めていない。でも、自分の足で歩いていくことだけは決めていた。
バスに乗り、窓の外を見る。景色が流れていく。見知らぬ町。見知らぬ人。誰も自分を知らない。誰も自分を覚えていない。それが、なぜか自由に思えた。
(見られないことは、寂しいことじゃない)
そう思えるようになった。誰かに見られることで自分を確認するのではなく、自分がここにいると自分で認めること。それが、本当の「いる」という形なのかもしれない。
光莉は、自分の手を見た。指先が冷たい。でも、その冷たさは、誰かの手のひらの冷たさを思い出させた。父の。母の。旅の途中で出会った、名前も知らない誰かの。
(みんな、どこにいるんだろう)
わからない。でも、その「わからなさ」が、愛おしかった。
彼女はノートを開き、ペンを握った。そして、ゆっくりと書き始めた。
「私は、自分の影を探している。誰のものでもない、自分の影を。」
その言葉は、彼女自身にもよくわからなかった。でも、書かずにはいられなかった。
バスはトンネルに入る。視界が暗くなる。その暗闇の中で、彼女は自分の影が少しだけ薄くなった気がした。気のせいかもしれない。でも——もし気のせいじゃなかったら。
それは、新しい旅の始まりかもしれない。
トンネルを抜ける。光が差し込む。窓の外には、また違う風景が広がっている。
光莉はノートを閉じ、そっと胸に抱いた。
(もう少しだけ、このまま歩こう)
誰に言うでもなく、呟いた。それは、自分自身への約束だった。




