最終章 光莉の章 第3話「ただそこにいる」
光莉がその村に辿り着いたのは、秋の終わりだった。
地図には載っていなかった。いや、正確には、地図にはその場所があるはずなのに、名前がなかった。
国道からそれて、林道を進み、さらに獣道のような細い道を歩いた先。そこに、ぽつりと集落があった。
村の入り口には何もなかった。
看板もなければ、案内板もない。
ただ、古い石垣と、その隙間から覗く苔があるだけ。光莉は少し迷ってから、ゆっくりと歩き出した。
最初に気づいたのは、音のなさだった。
車の音。機械の音。人の怒鳴り声。どこにもない。あるのは、風の音と、鳥の声と、時々聞こえる薪の割る音だけ。
彼女はしばらく立ち止まって、その静けさを味わった。
村の中心には、小さな広場があった。といっても、ただの空き地だ
そこに、誰かが腰を下ろしている。老人だった。彼はこちらを見ようともせず、ただぼんやりと遠くを見つめている。
光莉はその姿を見て、ふと向かいのホームに立っていたあの老人を思い出した。でも、違う。この老人の目には、あの日の老人のような「何かを探す」気配はなかった。ただ、そこにいるだけだった。
「こんにちは」
光莉が声をかけると、老人はゆっくりと顔を向けた。そして、にこりと笑った。歯はほとんどない。でも、その笑顔はなぜか温かかった。
「旅の人かね」
「はい。ここを通りかかって」
「そうかい。泊まっていきな。どこでも空いてるから」
それだけ言って、老人はまた遠くを見つめ始めた。光莉はその言葉に従い、誰も使っていない古い家を借りて、数日間そこに滞在することにした。
村での生活は、驚くほど静かだった。
誰も光莉を気にしない。観光客を見たことがないのか、それとも単に興味がないのか。
どちらにしても、彼女に声をかける者は少なかった。声をかけても、用件だけを話して、すぐに去っていく。
そこには「もっと話したい」という気配もなければ、「早く立ち去ってほしい」という気配もなかった。ただ、必要なことを話して、それで終わり。それだけ。
最初は戸惑った。
これまでの旅の途中で、光莉は様々な村や町を訪れてきた。どこでも、人は彼女に興味を持った。
よそ者だから。珍しいから。
ある時は歓迎され、ある時は警戒され、ある時は無視された。
でも、そこには必ず「何か」があった。相手の「気持ち」というものが、必ずそこにあった。
この村には、それがなかった。光莉を歓迎するでもなく、拒絶するでもなく、ただ「そこにいる」という事実だけを受け入れている。
まるで、彼女がそこにいることは、そこに石が転がっているのと同じくらい、自然なことだった。
ある日、光莉は村の外れで一人の女性が畑を耕しているのを見た。鍬を振り上げ、振り下ろす。その繰り返し。汗を拭うこともせず、ただ黙々と。
光莉は何気なくその様子を見ていた。すると女性は手を止め、こちらを見た。
「手伝う?」
「いいえ。ただ、見てただけ」
「そう」
それだけ言って、女性はまた鍬を振り始めた。光莉はその背中をしばらく見つめていたが、やがてその場を離れた。彼女はその女性の名前も知らないし、向こうも光莉の名前を知らない。それでよかった。
夜。借りている家の窓辺。
光莉はノートを開いていた。
旅の記録。見たこと。感じたこと。考えたこと。それらは全て、誰かに伝えるために書いているわけではなかった。ただ、自分の中にあるものを、外に出さずにはいられなかったから。
彼女はペンを握る。何を書こうか考えて、やめた。今日は、何も書くことがない。いや、正確には「書くべきことがない」のだ。
ここでの時間は、あまりにも静かで、あまりにも平坦で、どこにも「引っかかり」がなかった。それが、なぜか心地よかった。
窓の外の月が、静かに浮かんでいる。
光莉はしばらくそれを見ていた。誰にも見られていない。誰も見ていない。ただ、月がそこにあって、自分がそこにいる。それだけ。それで、よかった。
数日後、光莉は村を後にする決意をした。別にここが嫌になったわけではない。むしろ、ずっとここにいてもいいと思える場所だった。
でも、まだ自分の足で歩いていたかった。まだ見ぬ場所が、どこかにある気がした。
村の入り口まで来たとき、誰かが見送りに来ているかと思った。でも、誰もいない。遠くで、薪を割る音がする。別の場所では、鍬で土を耕す音がする。彼らはそれぞれの仕事を続けている。光莉を「見送る」ために手を止める者は、一人もいなかった。
それが、彼らなりの「見送り」だった。
光莉は振り返らなかった。背中に、誰かの視線を感じることもなかった。それが、彼女にとって初めての「自由」だった。
誰かに見られることを気にしない。誰かを見ることも、必要以上にはしない。ただ、そこにいる。それでいい。
その感覚を、彼女は手に入れた。




