第7章 無名の痕跡 第5話「読んだ母、読まなかった母」
一人の母は書店の新刊コーナーでその本を見つけた。
『彼女の計画』。
著者の名は、娘と同じだった。
彼女は迷わず手に取り、レジへ向かった。
家に帰り、夕食の片付けを終えてから、ゆっくりとページを開いた。
読み進めるうちに、彼女の手が止まった。
これを書いている人は、自分が知っている娘なのだろうか。
冷たく、アリを観察するように人を見つめ、価値を測り、距離を置く——少女。
彼女の知ってる娘とはかけ離れているように思えた。
書かれている話には、胸が締めつけられる思いがした。
彼女は何度も本を閉じかけた。
でも、読まずにはいられなかった。
娘が書いたのだから。
読み終えた夜、彼女は日記に書いた。
「娘の小説を読んだ。難しい話だったけど、私たちのこと少し書いてあったのかな。少しだけ、うれしかった」
もう一人の母もまたその本の存在を知っていた。
書店で平積みになっている。
話題にもなっていた。
あらすじを読めば、娘を思わせる設定がある。
娘と同じ境遇の女性。
彼女はその本を一瞬、手に取った。
しかし開かなかった。
(そんなはずない)
彼女はそう思った。
娘は特別な子だ。
自分がそう育ててきた。
あの子は、そんな選択をするはずがない。
あの子は、特別な道を歩むはずだ。
彼女は本を棚に戻した。
そして、二度と手に取らなかった。
読まなくてもいい。
読んだら、自分がこれまで信じてきた「娘」が壊れてしまう気がしたから。
二人の母はカフェ「あおい」の噂を聞いた。
娘が書いた物語の重要な舞台になった場所だと。
一人の母は店の前に立った。
ガラス越しに窓際の席を見た。
娘が何度も書いた場所。
彼女にはその意味がわからなかった。
でも、それでよかった。
娘がそこで何を見て、何を考えていたのか、全部理解できなくてもいいと思った。
ただ、自分の知らない場所で、自分の知らない時間を生きていたのだと知っただけで十分だった。
もう一人の母もまた、同じ店の前に立っていた。
看板を見上げ、ガラス越しに店内を覗き、窓際の席を見た。
そして視線を逸らした。
本当は知りたい。
娘がどんな人間だったのか。
でも知った瞬間、「自分の娘」がいなくなってしまう気がした。
だから店には入らない。
本も読まない。
知らないままでいることが、娘を守ることだと信じた。
二人の母親は出会わなかった。
名前も知らない。
互いの存在すら知らない。
ただ同じ店の前に立ち、
全く違う選択をした。
一人は読んだ。
理解できなくても。
一人は読まなかった。
理解したくなかったから。
どちらも母親だった。
どちらも、娘を愛していた。
だからこそ、選んだ道が違った。
そして娘たちは最後まで知らない。
母親が何を読んだのか。
何を読まなかったのか。
どんな気持ちでページをめくったのか。
どんな気持ちで本を棚に戻したのか。
でも、その選択は残った。
誰にも知られず。
誰にも語られず。
娘たちですら知らないまま。
それでも小さな痕跡として。




