第7章 無名の痕跡 第4話「好意の裏返し」
僕は、彼女のことが好きだったのだと思う。
今でも、本当にそれが恋だったのかはわからない。
ただ、僕にとって彼女は特別だった。
昼休みになると、みんなが教室で騒いでいるのに、彼女だけは図書館へ向かう。
窓際の席。
本を開く。
静かにページをめくる。
その姿は、中学生だった僕には少し大人びて見えた。
同時に、近づきにくいとも思った。
だから気になった。
でも、話しかけられなかった。
どうやって近づけばいいのかわからなかった。
だから僕は、遠くから見ているだけだった。
ある日の昼休み。
僕は彼女のノートに一枚のメモを挟もうとした。
緊張で手が震えた。
汗で紙が指先に吸い付くように引っかかった。
でも、そのまま押し込んだ。
「お前ん家のこと書いてある本らしいぞ。」
本当は話しかける口実が欲しかった。
彼女が振り向いてくれればよかった。
「それ面白いの?」
その一言だけでよかった。
でも当時の僕は、それを素直に言えなかった。
だから、そんな回りくどい方法を選んだ。
彼女はその本を借りてきて、夢中になって読み始めた。授業中も、休み時間も。
僕は少しだけ嬉しかった。
自分がきっかけを作ったのだと思ったから。
けれど、それは長く続かなかった。
彼女は本を読むたびに、どこか遠くへ行ってしまうように見えた。
振り向いてほしくて渡した言葉なのに。
彼女は僕ではなく、その本の向こう側を見始めていた。
その時になって、初めて思った。
まずいことをしたかもしれない、と。
でも謝れなかった。
謝ったら、自分が彼女を気にしていたことまで認めることになる気がした。
だから何も言わなかった。
見ているだけだった。
卒業して、僕たちは別々の高校へ進んだ。
季節だけが過ぎていった。
あの出来事は、少しずつ記憶の奥へ沈んでいった。
それでも時々思い出す。
図書館の夕方の光。
本を読む彼女の横顔。
ノートに挟んだ紙の感触。
数年後。
記憶の彼方にあった『彼女の計画』という作品の名前を耳にした。
内容は知らない。
読んでもいない。
読む勇気がなかった。
ただ、その本が彼女に何かを残したことだけは、なんとなくわかった。
僕は今でも考える。
あの日。
素直に話しかけていたら。
メモなんかじゃなく、
「好きだよ」
と一言だけ言えていたら。
何かは違っていたのだろうか。
もちろん、そんなことはわからない。
僕は彼女の人生を知らない。
彼女も、僕のことなんて覚えていないだろう。
ただの同級生の一人。
それだけだ。
でも、確かなことが一つある。
僕の幼稚な好意は、一枚のメモになった。
そのメモは、誰かの人生を少しだけ動かした。
善意でもなかった。
悪意でもなかった。
ただ、未熟だった。
そして、その未熟さこそが、
誰にも知られないまま残った、
僕の痕跡だった。




