第7章 無名の痕跡 最終話(1/3)「カフェあおい 最後の日」
【境界】
この物語は、三つの物語の境界に置かれている。
『彼女の計画外伝』では「無名の痕跡」の一編として。
『彼女の喫茶店』では、最後の物語として。
そして、一冊の短編小説として読むこともできる。
どこから読み始めても構わない。入口は、あなたが選ぶ。
第1話「受け取れなかった日」
時は21世紀前半。
田中がそのカフェに足を踏み入れたのは、何気ない夕方のことだった。
駅からの帰り道。いつもの道を少しだけ外れた先に、古びた看板があった。『カフェあおい』。その文字がなぜか目に留まった。理由はわからない。でも、入ってみたくなった。
店内は薄暗く、ジャズが低く流れていた。カウンターの奥に一人の男性が立っている。
店に入ると窓際の席に通された。何の変哲もない、木目のテーブル。
彼はコーヒーを注文した。そして、ぼんやりと窓の外を見ていた。
その時——入り口のドアが開いた。二人の男女が入ってくる。男性はどこか緊張した面持ちで、女性は少し疲れた様子だった。二人は窓際の席に座る。会話はない。ただ、その場にいるだけ。
やがて、もう一人の女性が入ってきた。彼女は少し迷うように店内を見渡し、その二人の席へと歩いていく。
三人が揃うと、テーブルを挟んで異様な緊張が走った。声はほとんど聞こえない。でも、空気が張り詰めている。まるで、言葉にできない何かがその場を支配しているかのように。
すると突然、机をバンと叩く音が聞こえた。彼はちらっと様子を伺う。男性が怒っている。女性の一人は真剣な表情。もう一人は泣いているのか——うつむいたまま肩を震わせている。
その雰囲気を感じて、彼は思った。
(面倒そうだな)
空気が重い。自分には関係ない。彼はコーヒーカップに手を伸ばした。一口含む。苦い。それだけ。
何も感じなかった。何も受け取れなかった。ただ、コーヒーを飲んで、会計を済ませて、店を出た。それだけのことだった。
その日から、何年もの月日が流れた。彼はサラリーマンを続け、退職し、そして——何もない日々を過ごしていた。
ある日、彼は街角で見慣れた場所を見つけた。かつて自分が入った、あのカフェ。看板は古びて、文字が掠れている。そのドアに、一枚の張り紙が貼ってあった。
『カフェ「あおい」、店長を募集します』
彼はその文字を、長い間見つめていた。理由はわからない。でも——気づくと、鍵を預かっていた。
老人は鍵を渡しながら、静かに言った。
「この店はな、最後に分かる店なんだ」
彼は尋ねた。「最後?」
老人は微笑んだ。「うむ。最初に来た人は、誰も分からない」
——そう告げて、その場を立ち去っていった。
『彼は、何も受け取れなかった日を覚えている。その空白が、何十年もの時を経て彼を再びこの店へと導くとは、まだ知らなかった。』




