第6章 拓と瞳、光莉の章 第8話(4/5)【十年——それぞれの問い】(光莉の視点)
8. 父——わからないということ
旅の八年目。実家を離れ、再び一人で山間部を移動していた途中、光莉は人生で最大の危機に直面した。
突然の局地的な集中豪雨による、土砂崩れ。道は完全に寸断され、周囲の木々はなぎ倒され、携帯電話の電波は完全に圏外。一晩中、激しい雨風が吹き荒れるがけ下の狭い岩陰で、寒さに震え、死の恐怖に怯えながら、彼女は暗闇の中でただ一人、考え続けていた。
(もし、私がここで誰にも知られずに死んだら――お父さんは一体、何て言うだろう。またいつものように、感情のない顔で「わからない」って言うだけだろうか。私の死さえも、あの人は他人事のようにやり過ごすのだろうか)
翌日、奇跡的に救助隊に発見され、無事に生還したものの、光莉の胸の奥底にくすぶる「火」は消えなかった。自分が生死の境をさまよい、絶望していたあの夜、父は一体何をしていたのか。何を考えていたのか。
その年の暮れ、光莉は再び実家の門を叩いた。
庭では、父・拓が昔と変わらない手つきで、黙々とバラの剪定をしていた。何を考えているのか、世界をどう見ているのか、一切を拒絶するかのような、いつもの無表情な横顔。
「お父さんは、いつもそうやって、何を考えているの?」
光莉の声は、少し冷たく張り詰めていた。
拓は、ハサミを動かす手を止めず、少し間を置いて静かに言った。
「何も考えてないよ、光莉。ただ、ここにいるだけだ」
「それで、いいの? 自分の娘がどうなっても、世界がどうなっても、ただ何も考えずにそこにいるだけで、本当にいいと思ってるの?」
「深く考えないことも、生きていくためには必要なことだから」
その瞬間、光莉の中で、十年間蓄積されてきた、そしてあの嵐の夜に爆発しかけた感情が、限界を迎えて弾けた。
「――どうして、いつもそうなの!」
光莉の叫び声が、庭に響き渡った。彼女の身体が、怒りと悲しみで激しく震える。
「私、この前の旅の途中、山で遭難したんだよ!? 本当に死ぬかもしれなかった! 暗闇の中で、一晩中凍えてた! あの時、お父さんは何を考えてたの? 本当に何も考えてなかったの!? 私のこと、心配すらしなかったの!?」
拓のハサミを持つ手が、ピタリと止まった。
「小さい頃からずっとそう! お父さんは私に何も教えてくれない! 何を考えてるのか、何を恐れているのか、何一つ見せてくれない! 学校でいじめられそうになった時も、進路で悩んだ時も、私はお父さんに相談できなかった! だって、お父さんは私を見ているだけで、何も言わないから!」
堰を切ったように、言葉が一気に溢れ出した。
「純さんの小説を読んだ時、やっとわかった気がしたの! お父さんが過去にどんなことをして、どんな目に遭ってきたのか。でも、それを知っても、お父さんの本当の核はわからない! 私が何をぶつけても、お父さんは『わからない』って言うだけで、何も教えてくれないじゃない!」
拓は何も言わなかった。ただ、剪定ハサミを握ったまま、石のようにその場に立ち尽くしていた。
「私、この十年間、ずっとその意味を考えて旅をしてきたの! お父さんが、どうして『わからない』って不気味なほど言い続けるのかって!……でも、やっとわかったわ。お父さんは、ただ逃げてるだけなんだよ! 自分の言葉に責任を持つのが怖いから! そうやって殻に閉じこもってるだけじゃない!」
重苦しい沈黙が、箱庭のような庭にずしりと落ちた。風が吹き、バラの乾いた葉が擦れ合う音だけが響く。光莉は激しい呼吸のまま、父の背中を睨みつけていた。
やがて、拓がゆっくりと振り返った。その顔は、いつもと違っていた。
「……そうだな。お前の言う通り、俺はただ、逃げていただけなのかもしれない」
その声は人間らしい弱さに満ちていた。
「自分が本当は何を考えているのか、言葉にしようとすると、すべてが嘘になってしまう気がしたんだ。そんな自信の持てていない人間の言葉が、誰かを、瞳を、そしてお前をいつか残酷に傷つけるかもしれない。それが……たまらなく怖かった。だから、わからないふり、いや『わからない』という殻の中に逃げ込んでいたんだ」
「それで……本当に、よかったの?」
「よかったかどうかは、今でもわからない。でも――」
拓は、剪定ハサミを地面に落とし、真っ直ぐに光莉の涙で濡れた目を見つめた。
「お前がこの世に生まれたあの夜、俺の中で、何かが確かに変わったんだ。この小さな命には、俺の過去の醜い業を絶対に伝染させてはいけない。お前がいつか大きくなって、俺の過去を問いかけてきた時には、どんなに不器用でも、俺自身の言葉で答えなきゃいけないって……ずっと、ずっと思っていた。でも――」
「でも、どうして……!」
「それでも、うまく言えなかったんだ。お前を愛していること、お前を守りたいこと、そのすべてを伝えようとすればするほど、その言葉の重さに潰されてしまったんだ。……それが、俺という人間の、どうしようもない弱さだったんだよ」
父の目が、かすかに潤み、赤くなっているのを、光莉は人生で初めて目撃した。
「ごめん、光莉。情けない父親で、本当に、すまなかった」
その謝罪の言葉を聞いた瞬間、光莉の胸の奥の頑なな凍土が、一気に溶け去るように熱くなった。
(お父さんも――何も考えていなかったんじゃない。言葉にならない、深い殻の中で、私と同じように、私以上に苦しみ、必死に踠いていたんだ。……私を、守るために)
その夜、光莉は実家の自分の部屋で、震える手でノートに書き留めた。
『父はずっと「わからない」と言い続けてきた。でも、それは冷酷な逃避じゃなかった。安易な言葉で世界を定義することを拒み、「わからない」という混沌の殻を維持し続けること自体が、父の、人間としての脆くも不器用な核だったんだ』
『でも、それだけじゃない。父は私に、必死に伝えようとしてくれていた。言葉にならないその沈黙こそが、父の最大の弱さであり、同時に、私を育て上げてくれた最大の強さだったんだ』




