第6章 拓と瞳、光莉の章 第8話(2/5)【十年——それぞれの問い】(光莉の視点)
4. 康介——見守る人の静けさ
四年目の冬、光莉は北関東の古い街にある古本屋でアルバイトをしながら、康介の住む静かな住宅街へ向かう準備をしていた。
本を運ぶせいで、指先は少し荒れてひび割れていたが、自分が生きている証拠のようで愛おしかった。
康介の自宅の庭は、驚くほど静かだった。
冬の澄んだ空気の中、寒風が植木鉢の枯れ葉をわずかに揺らす音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。
「光莉さん、よく来てくれましたね。ありがとう」
康介は、穏やかな温和な笑みを浮かべて彼女を迎え入れた。
その佇まいには、かつて妻を奪われた男の怒りも、世界への恨みも一切なく、深い静けさだけがあった。
光莉は、胸の奥で溜まっていた問いを、震える声で口にした。
「……康介さんは、お父さんのことを、ずっと見ていたんですよね?」
康介は少しだけ目を伏せ、庭の枯れ木を見つめながら、静かにうなずいた。
「ええ、見ていましたよ。すぐ近くで、あるいは遠い画面の向こうから。でもね、見ていたからといって、彼のすべてをわかっていたわけではありません。人は……自分が見たいように相手を見ているだけで、実は何も見えていないことの方が多いのです」
その言葉は、庭を吹き抜ける冬風よりも静かに、光莉の胸の奥底へと落ちた。
少しの間を置き、光莉は最も核心にある問いを口にした。
「……私の、お母さんのことも、覚えていますか?」
康介は一瞬、驚いたように小さく目を見開いたが、すぐに元の柔らかな表情に戻した。そして、ゆっくりと庭の隅へと視線を移した。
そこには、凍てつく土の中から、季節外れの花が一輪だけ、健気に咲いていた。
「覚えていますよ、もちろん。忘れたことはありません。あの人はね……誰よりも強い人でした。自分の決めたことを貫き通す強さがあった。けれど同時に、他人の視線の一突きで、簡単に砕け散ってしまうほど、とても傷つきやすい人でもあった」
光莉は思わず息をのんだ。康介は言葉を続ける。
「私は当時、夫でありながら、あの人のその脆さに気づいてあげられなかった。何もしてあげられなかった。でも――」
そこで一度言葉を切り、康介は光莉の顔を真っ直ぐに見つめて、優しく微笑んだ。
「今でも、私はあの人を遠くから見守っています。浅薄な言葉よりも、向けられる“視線の温度”で全てを察してしまう人ですから。私がこうして静かに見守り続けていることだけで、きっと伝わっているはずです」
光莉は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。康介は多くを語らない。けれど、その沈黙の中には、元妻である瞳への深い敬意と、過去の後悔と、そして「元夫」という枠を超えた、確かな守護の意志が満ちていた。
「光莉さん」
康介が、光莉の荒れた手をそっと見つめた。
「あなたのお父さんも、お母さんも……あの狂気のような騒動の中で、それぞれ歪だけれど必死なやり方で、あなたという新しい命を守り抜いてきた。私はただ、その営みを遠くから見ていたにすぎません」
光莉の目から、一滴の涙がこぼれ、荒れた手の甲に落ちた。
(この人は、お母さんの元夫なのに……こんなにも優しく、私の家族を見守ってくれていたんだ)
庭の風が、二人の間に流れる静謐な時間を、そっと撫でるように通り過ぎていった。
5. 沙織——描き続ける人の覚悟
五年目の夏。
旅先の小さなパン屋の店主夫婦が、お金の足りない光莉に「旅の人かい、頑張りなよ」と、焼き立てのパンを多めに袋に入れてくれた。
自分が一体どこへ向かっているのか、未だ明確な言葉にはできなかったけれど、世界は思ったより冷たくないのかもしれないと、彼女は歩き続けた。
沙織は、都心の喧騒から少し離れたカフェの窓際で、一心不乱にスケッチブックに鉛筆を走らせていた。光莉が影を落とすと、彼女は顔を上げて、人懐っこく微笑んだ。
「純さんから連絡はきてたよ。あなた、拓さんの娘さんね。お父さんたちの過去と向き合ってるんだって?」
「はい……」
沙織は、芯の丸くなった鉛筆を器用に指先で転がしながら、真剣な眼差しで言った。
「私はね、純さんみたいに言葉で真実を伝えるわけじゃないの。ただ、目の前にある人間の生々しい姿を、そのまま描くことで向き合ってきた。……でもね、人と向き合う、その内側を覗き込むってことは、時々、自分の魂が削られるくらい、とても痛いことなんだよ」
光莉は、沙織のスケッチブックの、黒く塗り潰された線の力強さを見つめながら、圧倒されていた。
「でも、痛いから、醜いからって、そこから目を背けて逃げちゃいけない瞬間が人生にはある。描くってことは、私にとって、その人の痛みを一緒に背負う覚悟のことなんだと思ってる。あなたのお父さんも、お母さんも、その痛みに必死に向き合っていたんだと思う」
その言葉が、光莉の胸にストンと落ちた。
(この人は、綺麗事じゃない、描くという行為の『痛み』を通じて、お父さんたちの生とも向き合ってくれていたんだ)
光莉は、沙織の指についた黒い黒鉛の汚れに、表現者としての強い覚悟を見た気がした。




