第6章 拓と瞳、光莉の章 第8話(1/5)【十年——それぞれの問い】(光莉の視点)
十年に及ぶ放浪の旅の中で、光莉は多くの人と出会い、無数の問いを重ねていた。
1. はじまり——父の背中を追って
旅の最初の一年は、目的地のない漂流のようだった。ただひたすらに歩き、他人の人生の断片を集める日々。
父は、なぜ私にあの過去を「わからない」と言い続けたのか。
母は、なぜすべてを知りながら「受け入れるふり」をして父の隣にいたのか。
純という人は、なぜあんなにも残酷に二人を「書かずにはいられなかった」のか。
康介という人は、なぜすべてを失いながら「見ているだけ」を選んだのか。
問いは、歩けば歩くほど、霧のように深く、光莉の視界を遮っていった。
ある激しい嵐の夜、足止めを食らった小さな民宿で、光莉は一人の初老の男と出会った。彼はかつて若い頃に大きな災害を経験し、多くの友人を失ったのだという。男は静かに、お茶をすすりながら言った。
「若い頃はな、『なぜ自分だけが生き残ったのか』『なぜあんなことが起きたのか』と、そればかり考えておった。でもな、歳を取ると、『なぜ』という問いの虚しさがわかる。それよりも、『起きてしまった後を、どうやって生きていくか』。大事なのはそれだけだと、思えるようになるんだよ」
光莉は、その言葉をノートの余白に、噛みしめるように書き留めた。
2. 東北——3月11日、14時46分
旅の二年目、初春の風がまだ冷たい頃、光莉は東北の沿岸部の町にいた。
3月11日。母は毎年、この日になると必ずこの地を訪れていた。その足跡を、光莉もまた辿っていた。
灰色の空の下、海を望む高台で行われた追悼の集いには、数多くの人々が静かに集まっていた。
14時46分。サイレンの音が響き、黙とうの時間が訪れる。
光莉は目を閉じ、かつて資料で見た津波の映像、原発から立ち上る煙、そして行方不明者の名簿を思い浮かべた。
あの日、この国全体のシステムと、人々の平穏が、根底から大きく崩れ去った。
(お母さんは、この場所で、あのサイレンを聞きながら、どんな痛みを一人で抱えてきたのだろう)
黙とうが終わり、人々が去っていく中、冷たい風に吹かれて立ち尽くす光莉に、一人の地元の女性が温かい缶コーヒーを差し出しながら声をかけてきた。
光莉の背負った、旅の埃をまとった大きなバックパックに目を留めて。
「若いのに、遠くからわざわざ来られたの?」
「はい……母が、毎年この日にここへ来ていると知って」
「そう。お母さんは、あの日、ここで誰かを失くされたのかねえ」
「……わかりません。母は、多くを語らないので。でも、言葉にならない何かを、ずっと一人で抱えていることだけは、知っています」
女性は、寂しげに、けれど慈しむように微笑んだ。
「そっか。……世の中にはね、答えが出ないまま、それをただ抱きしめて、生きていくしかない日もあるんだよ。お母さんも、きっとその痛みを抱えたまま、あなたを育ててくれたんだね」
その言葉は、冷え切った光莉の胸に、じわりと温かい質量を持って染み込んでいった。
3. 純——刃と向き合う人
三年目。光莉は、海沿いの寂れた港町で漁協の短期事務をしながら過ごしていた。
バスに揺られ、海の匂いが少しずつ薄れていくにつれ、胸の奥で一本の線が静かに伸びていくのを感じた。
その先にいるのは、次に向き合うべき「あの人」――純。
意を決して、光莉は純の仕事場を訪ねた。
ノックをし、扉が開いた瞬間、未だ衰えない鋭い視線が光莉を正面から射抜いた。
「あなたが……光莉さんね。……なるほど」
純はそれ以上、感傷的な言葉はいっさい口にしなかった。ただ、光莉の立ち姿を一度だけじっと見つめ、何かを測るように、あるいは得心したように小さくうなずいた。
「お父さんのこと、あの小説の裏側を知りたいんでしょう?」
「……はい」
「知りたいと渇望するのは、人間の本能だから悪いことじゃない。でもね、光莉さん――」
純は、濁った海が見える窓の外へ視線を移した。その横顔は、数え切れないほどの人を見続けてきた冷徹な孤独が滲んでいた。
「人は、自分が観測したものしか書けない。でもね、見たものがすべて真実とは限らないんだよ。言葉にした瞬間に、零れ落ちるものの方がずっと多いの。」
当時の光莉には、その言葉の本当の重みが理解できなかった。
ただ、一つだけ肌で理解したことがあった。
(この人は、凶器のようにペンを握りながら、ずっと“誰かの剥き出しの生”を見てきた人なんだ)
その視線の、射すような強さが、光莉の網膜に焼き付いていた。




