第6章 拓と瞳、光莉の章 第6話【旅立ち】(拓と瞳の視点)
光莉が、二十二歳になった。
大学の卒業式を終え、春からの就職先も決まり、誰もが「順風満帆な大人の始まり」を疑わなかったその夜。
夕食の膳が片付いたリビングで、彼女はひどく真っ直ぐな声で言った。
「お父さん、お母さん。私、旅に出ることにした」
「旅?」
瞳が、持っていた湯呑みを小さく揺らした。
「うん。やっぱり私、あの頃のことを、もっと知りたいんだ。純さんに会いに行く。康介さんにも、Eさんにも、沙織さんにも。自分の足で歩いて、直接、話を聞きたい」
拓は、何も言えなかった。瞳も、言葉を失っていた。
光莉は、二人の動揺を見透かすように、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべて続けた。
「お父さんやお母さんが話してくれたこと。その意味は、もうちゃんと分かってる。私はもう大人だよ。自分の目で見て、自分で考えたいの。」
沈黙が部屋を支配した。
かつて「見られること」に怯え、「わからない」という殻に閉じこもっていた拓は、目の前で自分の殻を破ろうとしている娘の瞳を見つめ、ようやく重い口を開いた。
「……わかった。行ってこい。でも、一つだけ約束してくれ。ちゃんと帰ってくるって」
光莉は、子供のように悪戯っぽく笑った。
「もちろん。ここが、私の家だから」
その夜、寝室のベッドに入っても、瞳と拓はなかなか寝付けなかった。薄暗い天井を見つめながら、どちらからともなく言葉がこぼれる。
「光莉、本当に行っちゃうんだね」
「ああ」
「大丈夫かな……あの子、一人で」
「……わからない。でも、あの子は自分で自分の道を選んだんだ。それでいいんだと思う」
「私、ちゃんとあの子の母親になれていたのかな。あの時、二十歳になった光莉に、私の口から話したけれど……本当にあれでよかったのかな」
「……どうかな。正解なんて、俺たちには一生わからないよ。でも、光莉は自分で答えを出す。あの子は、俺たちの弱さから生まれた、俺たちよりずっと強い子だから」
「そうだね……」
窓の外では、冬の終わりの星が静かにまたたいていた。その光のどこかに、光莉の未来がある。今夜はまだ、隣の部屋に彼女の気配がある。でも、明日には――もう、いない。
(これでいい。これが、私たちの選んだ道の、その先だ)
拓はそう思い、瞳もまた、夫の心音を聞きながら同じ覚悟を噛みしめていた。
第6.5話「旅立ちの朝」(光莉視点)
出発の朝。まだ薄暗い部屋で、光莉は机に向かっていた。旅のノートの最初の一ページ、その最後の一行に、こう書き加える。
『私は、父と母の物語を調べる。でも、その先にあるのは、私自身の物語かもしれない』
パタン、とインクが乾くのを待ってノートを閉じ、バッグに詰め、見慣れた部屋を出る。
早朝の冷気が満ちた玄関には、父と母が並んで待っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
引き留める言葉も、過剰なアドバイスもない。
ただそれだけの、短い言葉の交わし合い。
でも、二人の眼差しには、言葉以上の祈りが込められていることを光莉は知っていた。
光莉は、振り返らずに玄関の扉を開け、歩き出した。
冷たい朝の空気を吸い込みながら、背中に父と母の、あのどこまでも温かい視線を痛いほどに感じていた。
(これが、私の始まりだ)
旅の最初の一年、光莉は地方の小さな町にいた。日中は寂れた図書館で非正規の司書として働き、昔の新聞の縮刷版やネットで町の古いアーカイブを漁りながら、次の目的地へ向かう資金を少しずつ貯めていた。
深夜、次の町へと向かう長距離バスの窓に映る自分の顔が、風土と孤独に磨かれ、少しずつ大人のそれへと変わっていくのを、彼女は静かに見つめていた。




